2022年1月15日土曜日

『インフォアーツ論』第四章 ネットワーカー的知性としてのインフォアーツ

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第四章 ネットワーカー的知性としてのインフォアーツ

¶一 対抗原理としてのインフォアーツ

■ネットにおいて凡庸なこと

ネットにおいてすぐれて凡庸なことが、それを理解しない専門家たちによって見失われている。

ネットにおいて凡庸なこと。ネットは人と人とが出会う場所である。そこでは何でも起こる。それは「社会」であり「世間」であり「市場」であり「悪場所」であり「公共圏」である。それは、そこに集まった人たちがそこで何をするかによって決まる。それゆえネットにおいてどのようにふるまうのが適切なのかを考えることが決定的に重要である。

ネットにおいて凡庸なこと。「情報」の背後には、さまざまな意図がからみついている。したがって、すべての情報はしかるべき理由があって自分の手元に届いているということ。それゆえネット上のコンテンツに対する批判的リテラシーが重要になる。

ネットにおいて凡庸なこと。人はネットとのつきあいから、さまざまな社会や文化の内実を学ぶことができるということ。ネットは仮想された夢の世界ではない。そこでは現実に人は豊かにもなれるし傷つけられもする。問題はそこで何を学ぶかだ。

このような凡庸な事実をふまえるならば、これから始まろうとしている情報教育は、教育を錦の御旗に仕立てた情報産業振興策にすぎない。もちろん産業振興策にはそれなりの意味があるが、それ以上ではない。むしろ副作用のほうが大きいように思う。


■リベラルアーツからインフォアーツへ

情報教育の中で何を教育すべきなのか。現代の情報環境においてどのようにふるまうことが望ましいのか。そういうことを私たち自身も見失っている。だから情報教育が「インフォテックの政治と経済」の文脈で「情報処理教育」に矮小化されてしまうのである。このさい、ネットワーク社会に対する一定の洗練された理念を明確に打ち出すべきだ。そして、それをカリキュラムの隅々にまで浸透させることだ。

そもそもインフォテックに対する対抗原理の不在が問題なのである。IT政策に批判的な論者はいるけれども、概してローテクすぎて実態に即さないものが多い。たとえば、そうした流れで「教養」の復権が指摘されていることにとくに反対はしないが、新しいメディアそしてコミュニケーションの実態に即した知的能力を表現することばが必要ではないだろうか。それが欠けているために、適切な代案を構想できないでいると思う。

そこで私は対抗概念として「インフォアーツ」(info-arts)という概念を提案したい。「インフォアーツ」は「リベラルアーツ」(教養教育)を模して新たに創作したことばである。新時代の情報環境を生きる知的素養のような意味をこの概念に込めたい。解説的に言い換えると「ネットワーカー的情報資質」ということになるだろう。また短くは「情報学芸力」という訳語もつけることができる。

伝統的なリベラルアーツは、高級文化に根ざした討議空間や文字文化・印刷メディアに依存したものだった。二〇世紀になってからは、からくも「〈大衆文化〉対〈高級文化〉」という棲み分けの構造において、大学という特殊な社会の中で存続してきたものである。この棲み分けがもはや崩壊寸前だという認識は当然だと思う。私たちの前にあるのは、新中間文化ともいうべきハイブリッドなメディア媒介文化である。

ハイブリッドであるから、コンピュータの操作ができるだけでは話にならないわけで、そこで得られる情報の吟味や能動的探索ができなければならないし、図書館や書店に並んでいる無数の情報パッケージや新聞や放送での情報の比較・吟味も必要である。また、メールやメーリングリストや掲示板などによって討議して認識を深めたり問題解決をめざしたり、コミュニティを形成してゆく関係構築的能力も必要だろう。また、さまざまなツールやメディアを駆使して仕事を展開するノウハウを学ぶことも必要である。このようなことをすべて情報工学が教えられるのだろうか。言うまでもなく、担えるのはほんの一部分だけである。

ここであえて確認しておくと、私は何も情報工学やリベラルアーツがいらないと言っているのではないし否定するつもりもない。結論から言えば、図と地の転換が必要なのである。つまり、現在はインフォテックという画用紙(=地)にユーザーの情報能力(=図)を描いてしまっている。図と地の関係が逆転しているのだ。インフォテックに適応する能力開発ではなく、インフォアーツのための「わざ」をこそ構想すべきではないのか。インフォテックは、あくまでもその「わざ」の一選択肢にすぎないということを明確にしておきたい。

しかし、それにもかかわらず、ネットワークを駆使する能力がなければ、インフォテックによって完全装備されつつある制度的な情報システムに対応・対抗できるはずがない。現代のハイブリッドなメディア媒介文化において市民的文化構築に必要な人間的条件がいったい何なのかを社会的に問いつめる必要があるのではなかろうか。インフォアーツはそのための概念である。


■インフォアーツは対抗原理である

今一度整理しなおそう。あえて新奇な総称概念として「インフォアーツ」を対置して、「図と地の転換」を提案する理由は三つある。

第一の理由は、現状の情報教育の目標となってしまっている「インフォテック」に抵抗するための対抗原理であることを明確にしたいからだ。これはすでに述べたとおりである。

第二の理由は、市民社会的情報環境を構築するために必要な現代的素養であることを示したいからである。近ごろでは、古式ゆかしい「教養」や「世間知」などの復権を図るのがひとつの流行路線になっている。これらは一種のラッダイト主義と見るべきだろう。新しい機械が自分たちの仕事を奪っているからといって、普及してしまった機械を破壊しても仕方ない。現在は、インターネットや情報システムなどからなる情報環境に見合う資質が求められているのであって、それは復古路線では対応できないことである。私は、この復古的教養路線に対抗する目標として「インフォアーツ」を掲げたい。あくまでもネットワーカー的資質が必須だ。

そして第三に、構築原理として「情報のデザイン能力」が要になることはまちがいないだろうからだ。「インフォ」をつけたのは、メディアやチャンネルやコミュニケーションではなく、文化的内容としてのコンテンツに焦点を定めることが現実的課題と考えるからである。「アーツ」ということばは「知恵とわざ」という意味を含んでいる。それは総合的なものである。もちろん技術的知識は必要だが、情報科学やコンピュータ・サイエンスそして情報システム論の文脈に取り込まれないように距離化しておかなければならない。

では「インフォアーツ」は具体的にどのような資質をふくむのか。

それを考えるために、市民主義的なネット文化において画期的であったもの(つまりネットにおいて凡庸なこと)、あるいはそれを可能にしたものをきちんと整理して、それを新たな目標的価値として加えていく必要がある。また、インターネットが「ことばの市場経済」と化して、なんでもありの状態になって、人びとがもつべき知恵やわざも増えてきた。それがないと安全かつ有効にネットを利用できないことがらがたくさんある。そしてある種のしたたかさも必要になってきている。それらを総合して「インフォアーツ」という資質の条件をリストアップしておこう。


¶二 さまざまなインフォアーツ


■メディア・リテラシー

第一に、情報を批判的に吟味する能力が必要である。ニュースであれインターネット情報であれ、情報は一般にメディア(テレビやコンピュータ)を媒介して私たちのもとに届くのであるから、メディアに表現された情報の吟味とメディアそのものの吟味が必要になる。最近「メディア・リテラシー」と呼ばれるものがこれに相当する。ただし、メディア・リテラシー概念自体は、一方通行的なマス・メディアに対して批判的に吟味する力を教育しようという運動から生じている。他方「コンピュータ・リテラシー」「情報リテラシー」概念がマシンの操作やソフトウェアへの習熟といった狭小かつ無批判な内容を意味する(なぜなら、使用するマシンやOSやソフトウェアに対する疑念は封じられ、代替手段も選択できないのだから。環境への適応しか想定されていない!)のと異なり、メディア・リテラシーは批判的態度でメディアとつきあうことを主眼とする。

マス・メディアが商業的に運営されたコミュニケーション活動であることは比較的わかりやすい。しかし、ネットはそれ以上であることは案外忘れがちなものである。ネットのハイパーテキストは自由自在にリンクのクモの巣を構成するけれども、その結果として構築されるナヴィゲート構造(あるいは誘導路の偏り)は、かなり恣意的なものであることを知らなければならない。その上で、楽しむものは楽しめばいいし、そこで得られる情報の信頼性をあらかじめ値踏みしておけば、事故にはならない。しかし、ネットを始めたばかりの若い人たちがネット詐欺に遭いやすいのは、ナヴィゲート構造の恣意性に無頓着だからだ。情報は中立的なものだというのは幻想である。

この種の批判能力を育成するためには、メディアや情報環境に対する社会科学的な基礎知識も必要である。その上で具体的な実践を積み上げていくことだ。


■情報調査能力

第二に、日常的なことがらから学術情報にいたるまで、何らかの調べものをする能力を高めるということだ。ものごとを調べる環境は大きく変わった。かつては「まず図書館で百科事典を調べて」というのが相場だったが、今はちがう。「まずサーチエンジンで検索」というところだろう。とりあえずは何かがでてくる。各種データベースも充実してきた。オンラインショップでさえ商品情報データベースとして使うこともできる。これら情報環境の変化のおかげで人びとの情報調査能力は高まった。しかし、検索結果を鵜呑みにするようでは甘い。信頼しうる情報源にたどり着くのは意外と困難だ。知識の迷宮から目的の情報を的確に引き出す検索の世界は奥が深い。

そもそも図書館学的な世界になじむことが先決であろうし、文化全般についての幅広い教養的知識が要求される。

また、たんに情報と向き合うだけでなく、情報が集中し、知識や経験の豊富な集団・人脈・コミュニティとの日常的なかかわりもそうした能力にふくまれる。インターネット上のコミュニティであれば、若い学生も専門家や事情通の人たちと同じ土俵で知識や議論と向き合うことができるのであるから、そうした場に積極的に参加していることも調査能力を高めるはずである。


■コミュニケーション能力

第三に、コミュニケーションする能力である。この能力にはいろいろあるが、代表的なものとしては発表能力、そして他者との集団的討議能力がこれにあたる。

発表能力とは、たとえばプレゼンテーション、メール、そしてサイト構築において適切なインターフェイスを駆使する能力のことである。サイト構築では、企画力や構想力も重要な要素になる。ネットワークに送り手として参加する仕方としては、コンテンツ制作法を学ぶ必要がある。コンテンツ制作の動機づけ、読まれる文章の書き方、HTMLの文法、ハイパーテキスト編集の方法などについて学ぶことだ。こういうことは、じっさいに、テーマを設定してサイトをつくって公開し、相互批評の目の洗礼を受けて、ようやく上達するものである。

後者の討議能力については、同期的コミュニケーションである会議などでは、声の大きさや押し出しによって大きく左右されるが、非同期的コミュニケーションであるネット上においては「ことば」だけで討議を進めていかなければならない場合が多い。じつはシビアに討議能力が検証される場面なのである。

と同時に、ネットワーク上では共学習と共同知構築の作業が進めやすい側面もある。この点を日常的にきたえることが大切だ。こういうものはネットワーキング技術と呼んでいいだろう。議論の仕方やネットワークの広げ方、公共の場に自分を開いてゆく仕方を学ぶ。これもまた、メーリングリストや掲示板を運用して、実地にネットワーク・コミュニケーションの経験を積まないと学習のしようがない。


■シティズンシップ

第四に、シティズンシップ。この場合は「市民権」という意味ではなく「市民的能動主義」といった意味である。これは「市民的」であることが、現代の情報環境において、ひとつの「落としどころ」であるという認識に立っている。

まず「能動主義」でなければならないのは、こうでないと「多くを与える者が多くを得る」という形の互恵的関係が生まれにくいからである。受け身のフリーライダー(あとから来てタダ乗りする人)では、「ことばの市場経済」の恣意的なナヴィゲート構造にとらわれやすい。つまり、それで何かを獲得したとしても、後で何かを払わされる関係になりやすいということだ。互恵的な関係を作っていくことが、そうした構造からはみ出す力をつくるのである。

次に「市民的」でなければならないのは、自分を守るのはあくまでも自分であるということを表している。市民とは、たんに自律的に動く個人を総称するだけでなく、歴史的には、自分の財産と家族を守るためには、ときには武器を取って戦う人間を指している。闘争の武器は、現代日本社会において狭義の武器とは限らない。これまで述べてきた情報調査能力も武器になるし、討議能力は有力な闘争手段だ。最終的には警察力や法律を利用することもできる。

この社会的セキュリティの逆の側面から見れば、ネットワーク社会にあっては他者を容易に侵害してしまう可能性があるということにたえず注意を払う態度をもつということも重要である。その実態について理解するとともに、他者を尊重した自律的なふるまいかたについて考えること。「情報倫理」はしばしば「ネチケット」に矮小化されて理解される傾向があるが、このような思想的な行為作法であるとの理解が必要だろう。

シティズンシップの歴史的理解のためには視野の広い勉強が必要だが、とりあえずはネットワーク文化論が欠かせない。ネットワーク・コミュニケーションの文化・作法・倫理・歴史・ダークサイドを学習することで、たとえば「匿名の発言のどこが問題なのか」について思想的な理解をすることができる。

シティズンシップが確たるものとして個人に定着するには、文化の多元性への理解もなければならない。言語・障害・社会的障壁への配慮と具体的手だてを知ることが重要なので、いわゆるユニバーサル・デザインの理解は欠かせない。

地理的条件や身体的条件を比較的容易に克服できるインターネットの場合、他の要素とのキーが合わないということが生じやすい。たとえば電話で性急な返事を期待するとき、相手の標準時や生活時間へ配慮するのが当然であるように、他の属性についても想像力豊かに考慮し対応できる注意力が不可欠である。


■情報システム駆使能力

第五に、情報システムと対等につきあう技術的能力。プログラマーでもないかぎり、これには二種類の力があればよい。それは、まず第一に、大きな情報システムに参加する力である。すでに構築されたシステムに適応する技術力である。クライアントあるいはユーザーとして相応の適応力をつけることだ。

もうひとつの力は、小さな情報システムを構築したり運用したりする力である。非プログラム系開発者(発想・企画・コンテンツにおいて)のレベルである。たとえば、小規模サイトのコンテンツ制作と管理をおこなう能力がそれにあたる。中小企業や学校やNPOや地域社会のような、何もないところで手作りの情報システムやネットワークを構築したり運用したりすることになることがある。厳しい採算性の要求に応えつつ、それぞれの現場で有効なネットワークを作動させてコミュニケーションを促進しなければならない状況はけっこうあるものだ。市民論的に言い換えると、交渉の武器を使えることにあたる。そういうネットワークを構築するための開放的かつ実践的な情報技術もまた、コミュニケーション技術とともに、身につける必要がある。

これらに共通することであるが、セキュリティ管理の能力も必要である。たとえば個人情報について、どこまで開示するのかを決めておいて、適切に運用する能力。ある程度の技術的な知識がなければ、自分を守れない。そしてこれは、そうした作業をするさいの健康管理も含むのである。


¶三 メディア・リテラシーの先へ


■精神のデータ処理モデル

批判概念としてのインフォアーツの含意のひとつは、「情報」の名の下にコンピュータが導入されることが思考に与える副作用を注意深く排除することにある。

この点について明確に警鐘を鳴らしていたのはローザックである。かれは言う。「コンピュータが用いられているときにはいつでも(この効果を相殺しようとする注意深い努力がなされないかぎり)教え込まれている潜在意識的な教訓は精神のデータ処理モデルである」(セオドア・ローザック『コンピュータの神話学』)。この「精神のデータ処理モデル」こそ、情報教育の「隠されたカリキュラム」であり、「コンピュータ科学者たちをかりたてている」ものだという。ローザックは「このおそるべき圧力にたいして、教育哲学の一つの絶対的な原理、すなわち、けっして安売りしてはならない、に立ちもどる以外、何ができよう?」と警告する。

要するに、情報概念が一見中立的に見えるために、知性の全領域にわたって「精神のデータ処理モデル」が「隠されたカリキュラム」として機能するようになっていることを強く批判しているのである。情報教育はその典型事例なのである。この傾向は、情報教育が台無し世代に対してインフォテック的着地をしつつある現代日本でも同様である。

しかし、だからと言って、コンピュータやインターネットを排除するようなラッダイト主義に退行するのは非現実的な選択である。注意深く抵抗するという方法しかないだろう。


■メディア・リテラシーの考え方

そもそも情報とは意味や価値の平準化である。ゆえに意味づけや価値づけという解釈的な実践こそが、情報を工学的世界から人間的知的世界へ引き戻す有力な行為になるはずである。そういう行為としてもインフォアーツを位置づけておきたい。

この点でインフォアーツをさらに具体的に構想する手がかりになるのがメディア・リテラシーの考え方と実践活動である。

メディア・リテラシーの基本的な考え方は、以下の八項目にまとめられている(鈴木みどり編『メディア・リテラシーの現在と未来』世界思想社、二〇〇一年)。

(1)メディアはすべて構成されている。

(2)メディアは「現実」を構成する。

(3)オーディアンスがメディアを解釈し、意味を作り出す。

(4)メディアは商業的意味をもつ。

(5)メディアはものの考え方(イデオロギー)や価値観を伝えている。

(6)メディアは社会的、政治的意味をもつ。

(7)メディアは独自の様式、芸術性、技法、きまり/約束事(convention)をもつ。

(8)クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを創りだすことへつながる。

要するに、メディアは現実をそのまま映し出す鏡のようなものではなく、独自の現実を構築するものであって、その背後には商業的・社会的・政治的要素が存在している。そのため、オーディエンス(オーディアンス)が読み手として批判的に関わっていく必要がある。そのトレーニングをしよう。メディア・リテラシーとは、つまりこういうことだ。

すでに述べたようにインフォアーツも、このようなメディア・リテラシーを含んでいる。カルチュラル・スタディーズの考え方などもあわせて大いに参考にできる。

ただし、これまでのところ、メディア・リテラシーはマス・メディアに対する「消費者教育」の側面が強い。クリティカルであれというのは、マス・メディアに対して人びとが受動的な存在だったからこそ強調されるのであって、現状への抵抗の試みという側面がある。しかし、ネットワークにおいて私たちは消費者としてではなく、まさに支え手であり、それ以上の役割存在になりうることをだれもが承知している。もちろん感受性開発は大事だが、しかし現実構築力を付ける実践へと展開していかなければ実効性をもたないだろう。


■情報システムを疑うこと

しかし、メディア・リテラシーの延長線上でインフォアーツを考えてみると、いくつかの重要な論点が浮かび上がってくる。

第一に、コンピュータや情報システムを絶対視するのではなく、社会的な構築物として批判的に見るということ。聖なるものとして神聖視するのではなく、さまざまな個人や組織の利害や制度的産物として情報システムを見ること。

第二に、つねに他の手段があるのではないかと想像してみること。目の前にあるコンピュータを使うのが最善の手段とは限らない。コンピュータを使うにしても、たまたま目の前にあるOSやアプリケーションが適切とは限らないし、インターネットを使うにしても、その中でもつねに多様な手段があることを意識することだ。

第三に、インフォアーツにとって、やはりことばが重要であるということ。マルチメディアやヴァーチャル・リアリティなどと言っても大したことではない。どのみち、それらへの批評は、ことばでしかできないのだ。ことばの能力を磨かなければ、批判的に距離をおいてメディアとつきあうことはできない。

その他にもインフォアーツの実践上のポイントはありそうだが、このあたりにしておこう。インフォアーツの思想を論じる本書としては、むしろ、この種の議論の前提に遡及して論じておくことのほうが先決である。そう、インフォアーツ論が想定する「理想」とは何か。


¶四 ネットワーク時代の人間的条件


■現実の構成要素としての理想状態

理想というものは、語り始めると陳腐なものである。しかし、じっさいにはどんなものにも理想というものは「目指すべきモデル」なり「洗練されたスタイル」なりといった形で、暗黙の前提となって、現実の重要な構成要素となっているものだ。どんなにシニカルな態度にも理想が隠れている(しばしば本人も気がついていないのであるが)。だから想定されるフォーカスの「虚点」として理想像を思い描くことは、分析的に重要な作業である。所詮、社会は演劇的世界。ある程度のシナリオ(つまり理想)がなければ行き詰まってしまうものなのだ(ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳、ちくま学芸文庫、一九九九年)。

たとえば広告の場合「この商品が売れますように」という理想が多大なコストを企業に支払わせている。ジャーナリズムの場合も「権力が何を考え何をしようとしているか」を伝えることが民主主義社会を空洞化させないために必要なことだという規範的動機がある。だから、ジャーナリストはときには砲火の下でカメラを構えるのである。

このように、ある種の理想や理念が現実構築に重要な役割を果たすということは社会学の基本的了解事項と言える。マックス・ウェーバーが『宗教社会学論集』で述べた有名な一説を思い出そう。

「人間の行為を直接に支配するものは、利害(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミズムが人間の行為を押し進めてきたのである。」

ちなみに「転轍手」とは線路のポイント切り替え装置のこと。理念という転轍手が、人間の行為という列車の進む方向を決める役割を果たすことがあるというわけだ。だから、ある行為領域を分析するときには、そこに現実的構成要素して組み込まれている理想的局面を明らかにしておくことが現状分析として必要だということになる。ファシズムの研究者がファシストでないように、理想主義者だから理想をあつかうのではない。むしろ逆である。

じっさい、情報教育の現場において、ある特定の課題を与えて作業させることが学生にとってどんな意味があるのだろうかと自問することがある。その作業を通して、どこに向かえばいいのかがはっきりしていないと、学生はもちろん教員もとまどう。明確な理念的モデルの不在は、あくまでも現場を混乱させる現実の問題なのである。

ヴィジョンなしのやみくもな情報教育は事態をますます悪化させるだけであり、危険な状態をつくりだす。それは、マス・メディアにおいて報道倫理が要請されるのと同じである。ちなみに、それを身体化していないメディア人が多すぎるためにマス・メディアはたびたび社会を混乱させ、しばしば人びとを理性的議論ではなくモラル・パニックに導いてしまうのである。

では、インフォアーツの目指すべき理念、とりわけ人間像はどのようなものなのか。

もちろん、ひとつの統合された価値観にもっていくのはもともと無理な話である。しかし、私は、知識と人間の関係からアプローチすることで、ある程度はそれについて語ることができると思う。


■知識と人間の三つの関係

現象学的社会学者アルフレッド・シュッツのあるエッセイに沿って説明しよう。シュッツは、知識と人間の関係を三種に分けている(A・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳、マルジュ社、一九九一年)。

第一は「専門家」(expert)である。専門家のもつ知識は領域が限定されているが、そのかわり、その専門領域においては明晰で一貫しているものである。「専門家」はその専門領域においてすでに自明と見なされている準拠枠を受け入れている人たちである。たとえば医師という専門家は西洋近代医学という枠組みを自分の仕事の土台としている。

第二の類型は「しろうと」(man on the street)である。シュッツは、処方箋的な知識で満足する者という意味で使っているので、私は「しろうと」と訳してよいと思っている。また、知識の側から見ると、文字通り「通行人」とも言えそうである。この「しろうと」の知識は基本的に実用本位のものである。その知識は、たしかにかなり広い範囲に渡ってはいるものの、首尾一貫してはいない。「しろうと」は実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処し、一連の思い込みや明晰でない見解を構成し、自分の幸福の追求にさしさわりのないかぎり、素朴にそれらに頼っているとシュッツは述べる。

そして第三の類型が「眼識ある市民」(well-informed citizen)である。「多くの知識(情報)をえることをめざしている市民」の省略形とされている。シュッツによると「眼識ある」(well-informed)とは「当人の手許の実用的目的に直接関係がなくても、少なくとも間接的な関心はあるとわかっている分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること」を意味する。社会生活のあらゆる領域について事情通であろうとする取り組み方である。なお、以前から私は「見識ある市民」という、社会学では定番の訳語を用いてきたが(野村一夫『リフレクション——社会学的な感受性へ』文化書房博文社、一九九四年)、どうも「見識」ということばのニュアンスから「人格高潔」のような人でなければならないかのような無用の誤解をもつ人が多いことがわかったので、今回から「眼識ある市民」という訳語を用いることにした。情報通の市民、眼が肥えている事情通ということである。人格は関係ない。これは知識との関わり方の問題である。


■民主主義の前提

三種類の人間がいるのではない。要するに、私たちは、社会において生産され流通している知識に対して、いつもこの三者のうちのどれかでありうるということである。

しかし、とくに意識的に自分を鍛えないかぎり、私たちはいつも「専門家」か「しろうと」のいずれかである。自分の仕事についてはウルサイけれども、それ以外については何にも知らないし、知ろうともしないし、ときには「なぜそんなこと勉強しなきゃなんないんだ」と居直ったりするものだ。結局、人間というものは、自分に直接関係のあるものは学ぶけれども、そうでないものにはとんと無関心になってしまうものなのだ。

しかし、ひとつ言えることは、そのままでは成熟した民主的社会は成立しないということである。

民主主義には、ひとつの大前提がある。それはひとりひとりの市民が社会全体のことを知っているということだ。もちろん専門家レベルの知識をもっているということではない。専門家ほどではないけれども、そこそこの基本知識があるということである。あるいは、それを知ろうとする意欲・技術・能力をもっているということだ。つまり、「眼識ある市民」の役割を担おうとする人たちが大勢いるということが重要なのだ。それがなければ民主的な集合的意思決定は空回りする。

社会学者のロバート・ベラーらは『善い社会』(中村圭志訳、みすず書房、二〇〇〇年)の教育の章において次のように述べている。「経済のテクノロジー化が進むと、教育ある技能労働者が不可欠となる。だが、途方もなく複雑で相互依存的な世界にとって、さらに必要なのは、教育ある、そして事実をよく知った市民である」と。


■眼識ある市民とインフォアーツと情報倫理

インフォアーツの前提はおよそこのようなことである。逆に言えば、「眼識ある市民」のもつべき情報資質の総体こそがインフォアーツの理念的意味なのである。メディア・リテラシーの批判的態度や、シティズンシップの能動性や、ネットワークや情報システムを駆使した調査能力や討議能力が必要だというのも、ネットワーク時代において「眼識ある市民」として情報環境と関わるさいにこれらの資質がどうしても必要になるからである。古式ゆかしい教養主義では、もはやネットワーク時代の情報環境には対応できない。かと言って、すべてを技術的問題に解消しようとするインフォテックな知性では、せいぜい受動的適応が関の山である。私たちの生きている情報環境がたゆまない政治的・経済的・社会的・文化的産物であるとの現実認識が欠けていては話にならない。

以上、ネットワーク時代の人間的条件としてインフォアーツを論じてきた。このような議論を私はけっして無邪気な理想論とは思っていない。たとえば医療倫理・生命倫理・環境倫理と呼ばれる議論が要請されるのは、産業や技術の内在的論理によるやみくもな発展の結果として、人びとの生活世界や自然環境が侵犯されるシビアな現実を目の前にして、それに対して批判的かつ能動的に関与する必要が出てきたからだ。この場合の「倫理」は、シビアな現実に立ち向かうための根拠としての理念的モデルのことであり、一見中立に見える産業や技術が「政治」であるのと同じ意味で、積極的に「政治」に関与しようとする態度なのである。ここでの議論も同様の問題意識において「情報倫理」(しばしばネチケットのようなものとして矮小化されているそれではなく、危機的な情報環境の現実問題を批判的に問い直すものとしてのそれ)を問うてきたつもりである。


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