2022年1月15日土曜日

『インフォアーツ論』はじめに

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
はじめに

■ネットを語る資格

情報倫理・インターネット・サイバースペースといった問題群に対して、どのようなタイプの人間が語る資格をもつのだろうか。コンピュータ・サイエンスの専門家だろうか、現場を知っているシステム・エンジニアだろうか、それとも有名企業サイトの管理者だろうか、あるいは巨大掲示板の常連たちだろうか。

私はそのどれでもない。メディア文化を中心に仕事をしてきた一介の社会学者にすぎない。しかも、ネットワークを実証的に研究してきた研究者として語るのかと言えばそうでもない。ここまで複雑化し巨大化したサイバースペースについて何か新奇なことを実証的データに即して語ることは私にはできそうにない。

今のインターネット(以下、周辺環境を含めて「ネット」と略称する)は、一世紀ほど前のシカゴみたいなものだ。急速に人口が増加し、移民やさまざまな地域から流入した人たちがそれぞれの文化様式を持ち込み、文化のサラダボールになってしまったシカゴ。その変化を「都市化」と呼んでもいいし、「文化摩擦」が起こっていると読み取ることもできる。先住民の古式ゆかしい伝統文化は、もっとローカルな文化(サブカルチャー)や近代的な風俗や先端的な技術革新によってズタズタにされている。そして元に戻すことは不可能なのだ。

こういう社会状況を解読するために、のちに社会学史上「シカゴ学派」と呼ばれた社会学者たちは、とにかく街に出て、人びととつきあい、ともに生活し、励ましあうなかで、自分が見たもの聞いたものを書き留めていった。日記や手紙を集めて分析した研究もあった。これが社会学のひとつの原点になっている。

ネットのありようを考える上でも、この原点に立ち返る必要があるように思う。この雑踏の中で生起する問題も魅力も、雑踏の中でこそよく見える。研究対象と研究主体がこれほどまでにあからさまに一致している以上、観察できた等身大の他者像を描き、そこに投射された自画像を読みとることのほうが、なまじ数量的データを並べて議論するやり方よりも意味があるのではないか。

本書において私は、このような社会学的まなざしをもって自他を内部観察してきた市井の一ネットワーカーでありコンテンツ制作者として、そして広い意味での情報教育実践者の資格において語りたいと思う。

そういう私が一九九五年以来ネット上でこれまで経験してきたプロジェクトは主として次のようなものだ。


■社会学サイト「ソキウス」の経験

第一に、社会学サイト「ソキウス」(Socius)の経験がある。もし私の名前を読者がご存じであれば、それは「ソキウス」の作者としてであるにちがいない。「ソキウス」は一九九五年八月にASAHIネット上で公開を開始し、のちにシェアテキスト・プロジェクト honya.co.jp に参加して、そのコンテンツとなった。ちなみに「シェアテキスト・プロジェクト」というのは、オンラインソフトで流通しているシェアウェアと同じように、著者が(プログラムではなく)コンテンツを公開して、読者がドネーション(寄付)を出して支えるシステムと文化をつくろうというプロジェクトである。

昨今は情報教育や遠隔教育の名の下に学術系サイトが華々しく立ち上げられているが、「ソキウス」はそれとは逆のコンセプトをもっていた。じつは「ソキウス」を始めたころの私は、今日ほどにインターネットが普及するとは予想していなかったし、公式の教育に導入されるとはまったく考えていなかった。当時の私にとってインターネットは、まさに大学教育の枠をとっぱらってくれるオルタナティヴな選択肢としてあったのだ。

当時、私はおもに理系キャンパスで一般教育の社会学を教えていた。受講者が多く、しかもほとんどが不本意履修の学生であったから、こちらがいくらリキを入れて教えても限界を感じることが多かった。これはやはり「不幸な出会い」といわなければならない。大学はこうした「不幸な出会い」を量産している場所だと思っていた。だから、私は社会学を必要としている人たちに直接語りたかった。単位認定を伴う大学教育の枠から自分の社会学を解放することが大事だった。「ソキウス」はそういう個人的な思いを実現しようとしたプロジェクトだったわけである。

「ソキウス」は、少なくとも社会科学系日本語コンテンツとしては、かなり初期のもので、それだけに草創期特有の恩恵にも浴すことができた。今思えば、あれは特殊なことだったのかもしれない。ほとんど毎日数通以上の「見ましたメール」が見知らぬ人たちから届き、多くの人たちとの交流が始まった。そして、それはさまざまな果実を私にもたらして今日に至っている。


■法政大学大原社会問題研究所公式サイト OISR.ORG の経験

一個人として語ることにこだわった「ソキウス」はまったく個人芸的なコンテンツ制作だった。それに対して一九九九年から研究員になった法政大学大原社会問題研究所(略称「大原社研」)では、自発的な企画性を尊重しながらも集団的にコンテンツを制作するネットワーキング的なサイト運営に参加することになった。毎日メーリングリストが飛び交い、企画が立てられては次つぎに形にしていくスタイルが定着するまでには、それなりの時間を要したが、個人芸を越える集団的コンテンツ制作の創造性を体験してきた。

大原社研は大学付置の小さな所帯ながら、研究活動の一環として月刊誌をもち、年鑑を発行している。二〇〇ほどの史料復刻事業の実績もある。なにせ一九一九年の創立なので、戦前や占領期のものがたくさん収蔵されている。なかでも戦災を免れて残った社会運動系のポスターやチラシのコレクションは壮観だ。出版活動のさかんな研究所であると同時に、労働運動や無産主義運動の専門図書館・文書館の機能を果たす機関なので、ネットにおいてもそれぞれに対応する仕掛けが必要だった。

ここは何でも自前でやってしまう。すでにデータベースなど公式サイトとしての基礎ができていたので、私たちは、さらに高度な段階から仕事に入ることになった。デザインを一新し、インターフェイスを工夫し、全文検索を設定し、古い本や史料を電子復刻し、インデックス(所蔵目録)を公開していった。メールマガジンも発行したし、毎月刊行される有料機関誌のネットでの同時公開も始めた。

次つぎに協同で進めていった仕事のなかでも「OISR.ORG20世紀ポスター展」では、直前にできていた画像データベースを引き継いで、サイト上で大がかりな展覧会を催して注目を集めた。これ以来、千単位のファイルをあつかうことも多くなった。この三年で、いわゆる研究成果の情報開示にあたることは一通り体験したように思う。

ここでは、古いものと新しいものとの出会いがテーマである。古いものをいかにして現在と次代に伝えるかを考えてきた。また、書物的世界とネット的世界をどのようにリンクしていくかが、もうひとつの大きなテーマである。ネット上のコンテンツを本として刊行したり、本として刊行されたものをネット上で公開したり、未公開のものをネットと本で同時に公開したり、といったさまざまなパターンを試している。


■オンライン書店「ビーケーワン」の経験

二〇〇〇年七月にオープンした「ビーケーワン」は、日本資本としては業界トップレベルのオンライン書店である。私は、人文社会ジャンル担当の社外エディターとして開店時からここに参加した。当初ここには三〇歳前後を中心に名うてのカリスマ書店員や敏腕フリーライターそして有名ネットワーカーたちが集合していた。時期的には、オンラインショップの従来モデルの失敗が共通認識化し、「コンテンツ重視」と「コミュニティ・モデルへの転換」が新しいビジネスモデルとして流行していたときだったので、かれらのような人たちが呼び集められ、私のようなネット系社会学者にも出番が回ってきたようだ。ここは文字通りのドッグイヤーで、みんなじつによく働く。ゆったりと悠久の時間の流れるアカデミズム社会では仕事が速いつもりでいた私が、ここではのろまなカメのようだった。二〇〇一年いっぱいまで参加したが、ネット系ビジネスならではのスピード感を味わせてもらった。

書評を書いて本を売るのが「ビーケーワン」のビジネスモデルである。最近は長い書評から一口紹介(ポップに近いもの)へと傾向を変えてきているが、当初、私は系統的に社会学やメディア論の本を書評できることに魅力を感じ、たくさんの本を選書紹介し、書評を連載し、著者にインタビューしたりした。

とはいえ、その疾走するネットビジネスの中で私自身が貢献できたことはごくわずかなものだった。ここでは、とくに「ものを売ることは数ある影響力の中でもっとも大きいものだ」ということ、それをネットでやるのは至難のわざであることを思い知らされた。ネットの力を過大評価してはならないというのが、ここでの教訓である。


■研究活動のネット化

その他いくつかの短期プロジェクトもふくめて、ネットのことはだいたいメーリングリストで連絡体制がとられる。そのようなメーリングリストを中心にメールはよく書いてきた。とくに九〇年代後半は平均すると一日十通近くは書いてきただろう。「ソキウス」初期には読者メールに対して毎日返信を書いていたし、親しくなった研究者とは本一冊分もあるようなやりとりを集中してやったこともある。大原社研でもビーケーワンでもメーリングリストが主役だった。今でもいくつかのローカルなメーリングリストを主催しているが、書けば受け取る量も多くなる。メールを通じて鍛えられたことは多いとは言うものの、いわゆる「ハイテク過食症」の典型的患者だったと言えそうだ。

しかし、メーリングリスト自体が大きな意味をもったという点では、財団や科研費による医療社会学系の研究プロジェクトのことをあげなければならない。九五年に準備を始めた一連のプロジェクトの成果は、すでに複数の報告書と単行本『健康論の誘惑』(文化書房博文社)としてまとめられているが、いずれも遠隔地に分散している研究者たちがメーリングリストで毎日のように連絡を取りながら議論を進めた産物だった(より正確には、ペースメーカーとして相互に気合を入れあったというべきかもしれない)。そもそも、私がそれらのチームに加わったのも、ネットで知り合った研究者の計らいだった。ネットは地縁も学閥も組織も超えて、共通の関心テーマや志向性をもつ者を結びつける。もちろん「だれが」そうするかが肝心なのであるが(ネットが自動的に結びつけるわけではないのだから)。


■情報教育の経験

このようなネット上での活動をしているあいだも、私は自称「さすらいの社会学者」として毎日複数のキャンパスを飛び回って講義していた。早い話が、こちらが本業である。一般教養の「社会学」が多かったが「マスコミ論」「メディア・コミュニケーション論」などの枠組みの中で「ネットワーク文化」について講義してきたし、インターネットの歴史や情報倫理の問題にも言及してきた。最近はコンピュータ教室での実習もやるようになって、いわゆる情報教育のありようについて考えるようになった。

もともと「大学や学校での情報教育はムダだ」というのが持論だった。ネットはむしろ生涯学習(つまり大人たちの自発的な勉強)において有効だろうと考えて、そういう論文も書いてきた。社会学サイト「ソキウス」も学生のためではなく「一般市民のため」と明確に位置づけてきた。

しかし現在では、じっさいに情報教育を担当することになってしまい、たんなる否定論ではすまなくなったというのが実情である。ネットで私が体験してきたような興奮は当の学生たちにはなく、そこそこケータイとゲームマシンですんでしまっている。大学が期待する「世界に発信できる人材」像と、生身の学生の期待と実態とのギャップも強く感じてきた。

問題は、それにもかかわらず情報教育の制度は「IT革命」のかけ声とともにゆるみなく整備されつづけており、このギャップは放置できないものになっていることだ。学生をリードすべき大学側が的外れな努力をしていることも多いし、なすべきことをないがしろにしていると考えることも多い。私は強い危機感を抱いている。


■オプションを思考する

私の問題関心はおよそこのような経験に起源をもつ。要するに、ただ悩んできただけとも言えるこのプロセスから、私は多くのものを学んできたし、また、あえて拒否してきたものもある。いろいろ考えるところあって本書執筆時点では、自分なりに「省ネット運動」をしてネット仕事もメールも減らすようにしている。健康のためでもあるし、そうしないと、いつまでたっても本書が書けないことに気がついたからである。何事につけ適正な運用が必要だと思う今日このごろ。だから「祭りのあと」の気分が本書の基調になっている。

このように一歩引いたところから「ネットにおいて何が多くの人びとにとって価値あることなのか」を考えたい。それを輪郭のはっきりしたことばとして表現したい。たしかにネットを論じる人たちは多く、学ぶことも多いのだが、みんな途中で思考を止めてしまっているように私には思える。これには情報過多という大きな理由があるのだろう。現在のネットには説明すべき事柄があまりに多い。しかし私はそれに抵抗したい。そのために私が採用した「ものの見方」は次の三つである。

第一に、どんな複雑な現象も、人間がつくるかぎり、それらの行為を規制する理念(モデル)があるということ。人びとがなにごとかをなすときにはいつでも、誘導馬的な役割をする理念やモデルあるいは思考やスタイルやフレームや文法のようなものがあるのだ。こういうシンプルな筋目を見いだして論じることは、統計的にでてくることではないし、いくらディテールを解きほどいてもでてこない。社会学者が書くからと言って、実証的事実の奴隷として語るとはかぎらないのだ。そうした見せかけの「客観」ではなく、むしろ洗練された「主観」(そうあってほしいと願っているが)による内在的理解を駆使するほうが適切なこともあるのだ。

第二に、何事につけ、表裏一体かつアンビヴァレントなものであるということ。「アンビヴァレント」というのは、相反する価値を同時にもつということである。どんな行為にも想定された行為モデルや理念があるにしても、それは予期通りの結果を生むわけではない。また、同じ行為でも文脈によって意味が変わる。だから文脈を解読し、そこから行為を解読することが重要になる。

第三に、リアルとヴァーチャルの二元論的世界観を中止すること。両者とも相互に反照しあって定義されるものであって、その境界を画定することは元々できない。その呪縛から自由になるべきだ。

というわけで、本書においては、サイバースペースの多様な実態について該博な知識が披露されるわけでもなく、最先端の研究成果が引用・紹介されるわけでもない。本書で私が試みたのは、ネットにおいてこれからどうふるまうべきなのかについて自分の頭で思索して、ひとつの「オプション」を提示することである。このオプションを叩き台とすることで、ネットに対する態度と実践の落としどころを読者のみなさんご自身で考えていただくこと、これが本書の目的である。

それほど突飛なことを主張するつもりはない。おそらくは社会科学と教育とネットの三つを経験した者であれば大なり小なり考えていることだと思う。私は、それに名前を与え、その輪郭を描くだけである。

もしネットがさまざまな主体による意図的行為と不作為の現場であるとすれば、それは闘争の場であり「政治」の場であるとも言える。おそらくそれを論じる行為自体も「政治」のひとつとしての介入なのであろう。それなら、いっそのこと、価値判断と時代診断を含む「ネットの批判理論(クリティクス)」をストレートに提示して社会学的介入をしてみたい。本書はそういう本である。


*キーコンセプト


■リベラルアーツ

市民として自律的に思考し行動するのに必要とされる基礎的な教養教育。


■インフォテック

情報技術(いわゆるIT)およびそれに基づく情報工学的文化。


■インフォアーツ

インフォテックに対抗するものとして構想された、ネットワーク時代に対応した知恵とわざの総称。


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