『子犬に語る社会学』
第3章 システムからはみ出す
■癒しを求めて
都会に住んでいるせいからか、田舎暮らしがしてみたい。庭いじりもしてみたい。ときおり無性に沖縄民謡や中国の二胡を聴きたくなるときがある。都会の人ごみが嫌いなはずなのに、大勢の人たちといっしょに見る夏の阿波踊りが好きだ。お囃子の地響きするような太鼓もいいね。
こういう傾向は、近代システムの先端部である消費社会のどこかできっと仕掛けられたものなんだろう。でも、こういうものにふれるとき、ふだんの緊張が解かれるような思いがする。
お前たちを飼うようになったのも、そんなところだな。動物とつきあいたくなったんだ。シマリスから始めてハムスターやウサギやモルモット、そしてお前たち犬を飼うところまできてしまった。これもペットブームという消費社会のロジックにはまっているだけなのかもしれないけれども、お前たちとの世界は、今では大事な生活の一部になっている。おそらくこういう感覚は、うまく行っているときの恋愛感情や家族団らんなんかに通じるものだろうね。
こういう経験は、大なり小なり現代人に共通のものだろう? 近代システムを生きながら、そこから少しはみだすようなことをしたり、ささやかな楽しみや癒しを求めたりする。こういう側面を私たちはふだん「人間的な」と呼ぶことが多い。
前回は、あらゆる生活場面で近代の社会システムが支配的であることを見てきた。それは何よりも重要な問題だ。しかし、それが全てだなんて社会学は考えないんだ。そこからはみだす世界を人間はたくさんもっている。だから社会学では、近代システムの内部世界を詳しく研究すると同時に、近代システムの周縁や排除されたものを研究したり、別の論理で動いている「生活世界」と呼ばれる独特の社会領域も研究する。この点で、経済学のような伝統的社会科学といささか好みがちがってくるんだ。
■親密な世界
社会学がよく注目するのが、さまざまな集団の内部世界だ。動物で言えば「群れ」にあたる。お前たちは、群れをつくる動物だろ。お前たちは、おそらく私たち人間の家族もふくめて、ひとつの群れだと思っているんだろうね。人間たちも群れて親密な世界をつくるんだ。そこはお前たちと同じだな。ちがうのは、じつにいろんな群れ方をするところだ。
子ども時代には、たいていの場合、家族という群れに入る。自由に動けるようになると次に遊び仲間をつくる。こういう集団の中で社会性を身につけていくんだ。社会学では「第一次集団」と呼んでいる。家族は重要だから社会学でもたくさんの研究者がいる。
若者集団の生態もいろいろな形があって、よく論じられる。「○○族」といった流行があるからね。シカゴ学派と呼ばれる社会学者たちやその影響を受けた社会学者たちは、好んでこういう集団内に入っていく。こういう集団の内部では、ひとりひとりの性格類型が明確に構成されていて、それにそって自然と役割分担ができている。掟というかルールというか、そういう行動規則めいたものも自然発生的に成立していて、それに対して若者たちはじつに忠実なものなんだ。たとえば昔のツッパリや暴走族の若者たちは、社会の公認された規則には従わないけれど、集団内の規律にはきわめて従順なんだな。
似たようなことは、世間で「裏の世界」と呼ばれる集団にも言える。犯罪集団やホームレスの集まりから、医師や専門家たちの学閥にいたるまで、近代システムの周縁や内部に自然発生的に成立する親密な世界には独特なものがあるんだ。
がっちりと管理された工場労働者の世界にもこういう集団がある。「インフォーマル・グループ」と言うんだ。要するに、公式組織の内部に非公式集団が成立して、それが組織運営を管理者の意図どおりにしない大きなファクターになっているんだな。組合のことではないよ。親密な仕事仲間の集団だ。
インフォーマル・グループは組織を超えることもある。談合なんかは典型的だけれども、それが公共工事の競争入札制度という公正な仕組みを事実上台無しにしてきた。
もともとこういうものは伝統的な社会によく見られたものだ。今でも山村に住む老人たちはそういう世界に生きている。映画の寅さんシリーズで描かれる下町のような、都市の中のコミュニティもそうだね。市民運動のためのネットワーキングや宗教運動の内部にも息づいている。最近はネット上でも事実上のコミュニティが成立していて、じつに多くの人たちが「親密な世界」を経験している。
私たちが「仲良しグループ」とか「家族的なおつきあい」と呼んでいるような「親密な世界」を総称して社会学は「生活世界」と呼んでいる。その中で人びとが、いちいち思案することない自然的態度で日常生活を送っているような、自明性におおわれた世界だ。このように、人間は、緊張感ある近代システムの中にも、安らげる社会空間をつくってしまう。これはお前たちが群れで行動するのと同じだな。私たち人間にとっても、こういう群れの中にいると安心なんだよ。
私たちの生活の舞台装置は近代システムだ。しかし、それにもかかわらず、それに対してはみだす多様な世界がある。こういうものは、近代システムのすき間の出来事であり、システムのほころびと言っていい。社会学はそこを重点的に見ていこうとする。だから、こういう集団の生態を観察し、その親密な世界の意味を理解するんだ。国際金融の動向や法律の改定と同じように、これらは研究するに値する重要な社会現象なんだよ。
■縮図としての家族
この文脈で、どうしても問題になるのが家族だ。
愛し合う男女が結婚して、その愛の結晶として子どもが生まれる。子どもは両親の愛情を注がれて育っていく。家族は安らぎの場である・・・。てな具合に家族を思い描く人は多い。幸せな家族に恵まれた人はそう信じているし、恵まれなかった人はなおさらこうあるべきだと思い込んでいたりするものだ。
しかし実態は大きく異なる。そもそもこういう家族像は、社会学では「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれて批判されているんだ。イデオロギーというのは、現実に合わない思い込みが広く人びとに共有されていていることだ。しかし、その存在を否定はできないものなんだ。そういうふうに人びとが思っているということ自体が、現実を構成する重要な要素なんだから。たとえば、みんなが「愛がなくなったから別れるべきだ」と考えれば、離婚という現実が生じやすくなるだろ?
うまくいっている家族は、典型的にプライベートな生活世界に見える。けれども、自明だと思っている家族のありようは、じつは近代システムと背中合わせの、まぎれもなく近代の産物なんだ。だから社会学では、あえて「近代家族」と呼んでいる。
近代家族は、プライベートな領域として位置づけられ、強い情緒的関係で結ばれているとされる。家族愛は、横方向には夫婦愛、縦方向には子ども中心主義として現れる。夫は外で仕事をして家計を支え、妻は家事労働を担う。集団としてのまとまりが強くて、親族でない者はいない。基本型は核家族である。こんな感じだ。
こういう家族像を近代家族と呼ぶのは、歴史的にも空間的にも相対化するためなんだ。人類普遍の家族の形じゃないということの確認だ。
たとえば性別役割分担で女性が担当することの多い家事労働は、近代社会になって職場と家庭が分離されたために、家庭での仕事は労働と見なされないということになってしまった結果なんだ。つまり、近代の合理化の潮流の中で、家族のもつ多面的な側面が整理され再編されていったということなんだ。ハーバーマスという社会学者が「システムによる生活世界の植民地化」と呼んでいる一連の変化のひとつと思っていいんじゃないかな。家族は近代システムの変化に翻弄されている。
だから、家事労働を家族愛のあらわれと見るのはイデオロギーにはまっているわけだ。そもそも「本来、家族というものは・・・」なんて言い出すと、もう社会学じゃない。「本来の家族」なんて、現時点でそうあってほしいとその人が思っている家族像にすぎないんだ。
じっさい、現実の家族は大きく揺れている。その揺れ幅はかなり大きいんじゃないかな。日本の場合、すでに何かと言えば「少子高齢化」が行政サイドやマスコミの合言葉になっている。「バツイチ」と軽く言われるほど離婚の位置づけも変わった。「パラサイト・シングル」と呼ばれる独身者も多い。欧米では当たり前になっているが、子連れ再婚によってできた家族「ステップファミリー」という新しい家族の形も日本に定着するだろう。
家庭内暴力や育児放棄の問題も生じている。家族内では、安らぎの場としての弛緩もあれば、濃い感情がぶつかりあう緊張もある。ひきこもりのように、近代システムに対するシェルターとしての役割が個人の社会化を妨げることもある。生活世界は両義的であって、システムへの対抗にもなるし、根強い分断もつくるんだ。
「家族の危機」と呼ばれている事態も社会学的に検証してみないといけない。それは現実の危機ではなく、人びとの家族観がヴァージョンアップされないまま現実と合わなくなってしまっているだけかもしれないからね。
■残余概念の逆襲
社会学では、こうした近代の合理化の流れからはみだすテーマをよくあつかう。これはジンメル以来の伝統みたいなものだな。ジンメルは、本質的には哲学者なんだけれども、一時期「社会学」という新興科学に入れ込んで、一世紀ほど前に『社会学』という本を出して、その後の社会学に大きな影響を与えるんだが、その本の中で、「よそ者」だとか「孤独」だとか「誠実と感謝」といったテーマに正しい位置づけを与えて、論じるに足るものとして考察を加えていったんだ。
要するに、メインストリームから置き去りにされたものに注目するんだ。「置き去りにされた」というのは、要するに「こぼれ落ちる」とか「排除された」と言ってもいいだろう。こういうものを拾っていくんだ。それを揶揄して「社会学は残余科学だ」と言われたこともあったんだが、残余概念を研究対象としてまともに論じていくという点では、今でもそのとおりだと思う。
残余概念が重要なのは、それがかえってメインストリームの現象の本質を反転させて集約的に表現しているからなんだ。
たとえば、デュルケムという社会学者は『自殺論』という有名な本を書いている。今でこそ自殺という現象が社会のバロメーターのようにあつかわれているけれども、それを最初にやったのがデュルケムなんだ。かれは近代社会においては「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」が必然的に生じるというんだ。近代になると伝統社会がもっていたきずなが薄れ個人が孤立しやすい。そのために「自己本位的自殺」が生じる。また、近代においては「こうなりたい」「こうしたい」と欲望が無制限に拡大するが、それが満たされるとはかぎらず、しばしば激しい焦燥が生じる。これによる自殺が「アノミー的自殺」だ。こちらは今でも現代的な感じがするね。
最近は、過労自殺やリストラ自殺がマスコミでさかんに論じられているのを見てもわかるように、社会現象としての自殺問題はすでに社会学の専売特許ではなくなっている。それはそれでいいんだ。社会学のフロンティアは別の周縁領域に目を向けているはずだ。
たとえば最近の研究テーマの中で、システム周縁領域のものを拾ってみようか。都市的世界に対して阪神淡路大震災。日本文化なるものに対して沖縄やウタリの文化。平均的日本人に対して在日韓国人や日系ブラジル人。家族愛に対して家庭内暴力。結婚に対して非婚やパラサイトシングル。ニュースや広告に対して都市伝説やうわさ。異性愛に対して同性愛。健康志向に対して薬物依存。飽食ブームに対して摂食障害。そして政党政治に対して無党派層。
思いつくものをあげてみたけれども、「正常に対して異常」というのもあれば「内部に対して外部」というのもあるし、対極的な現象のペアもある。「残余概念の逆襲」と呼ばれているのは無党派層の存在だ。政党政治の中で長年「残り物」扱いされていたのが、今じゃ政治の主役だ。
こういうものは「問題」として語られるけれども、それは近代システムの予定調和的な領域からはみだしているからにすぎない。近代は絶えず動いているから、いつだってこぼれ落ちる部分はある。しかし、家族がそうであるように、それらの近代システムとの緊張関係はなくならないから、そこをたえず見つめている必要があるんだ。
社会学と人類学以外の社会科学は、このシステムの内部の立場から、システムを論じることが多い。経済学や政策科学なんかがそうだ。それはもちろん意味のあることだ。それに対して社会学は、理論と歴史と比較の視点からそれらを相対化しながら、そのフリンジの揺らぎの部分に着目して、その内部世界に切り込んでいく。それによって、システム自体の内的矛盾や変容を逆照射しようとするんだ。その意味では、誇りを持って「残余科学」と自称していいんじゃないかと私は思うよ。
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