野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』文化書房博文社、1994年。
第一章 反省的知識の系譜(1)情報と明識
反省社会学の知識論(1)情報
本格的な議論に入る前に、これまで仮に「ことば」と呼んできたことがらを明確な概念に置きなおそう。「ことば」によって表現されるのは広い意味での「知識」に他ならないから、これからは「知識」という概念を使用することにしたい。
さっそく、ここで「知識とは何か」について考えてみよう。といっても定義の詮索をしようというのではない。序論で再三述べてきたように、いま問われているのは「知識のありよう」とでもいうべきことであって、とりわけ、知識に対するわたしたちのかかわり方である。
大学紛争や反戦・反公害運動などで日本や先進諸国が騒然としていた一九七〇年前後、アメリカ社会学のなかに「反省社会学」(reflexive sociology)という一種の学問運動が盛り上がったことがある。それは当時の若手社会学者たちが時代の雰囲気に敏感に反応したひとつの帰結といえるものだったが、その提唱者として有名なアメリカの社会学者アルヴィン・W・グールドナーの議論から話を始めよう。かれは、社会学者の自己認識についての議論のなかで「知識」(knowledge)を「情報」(information) と「明識」(awareness) に分けて考えていた。このふたつの概念を区別するという素朴なアイデアは、社会を構成するわたしたち全体に適用するとき、なかなか力強い視点になる。そこで、ここでは、あらかじめかれの考え方を一般化して──つまりわたしたちの問題として──論じることにしたい。●1
さて、一般に科学が追求しているのは合理的な知識の拡張である。知識といっても、自然科学が追求するのは「情報としての知識」である。これは一見中立的に見えるし、一般にもそう信じられている。というのも、研究対象(研究されるもの)と研究主体(研究する人)とが明確に分離された上で、研究主体が研究対象に極力影響を及ぼさないようにして観察や実験がおこなわれた上で獲得される知識だからである。しかしグールドナーによると、それは基本的には自然界をコントロールするために生産される知識である。自然環境を人間にとって有用な資源に変えるために、自然の成り立ちと法則を知り、その上で自然環境に対する支配力を高めるテクノロジーを発達させる──これが「情報としての知識」の根底にある発想である。いわば「支配するために知る」知識である。これを「技術的知識」と呼ぶことにしよう。
これは何も自然科学だけの話ではない。社会科学も、自然界に対するのと同じ構図で人間社会をあつかうことによって、社会・組織・人間をコントロールする技術を研究するようになった。この場合も、対象のコントロールのために調査研究しテクノロジーを発達させるという点で「情報」は「技術的知識」である。それはすぐ役に立ち、応用がきき、予測を可能にする。社会科学では、このような知識を意図的にめざす営みをとくに「政策科学」(policy science)と呼んでいるが、そこまででなくても、「客観的な情報」を追求する社会科学であれば大なり小なり政策科学の性格を帯びているといっていいだろう。
反省社会学の知識論(2)明識
これに対して「明識」(awareness) は「自覚」「(自己)意識」「自己認識」「省察」「洞察」「覚醒」「覚識」などと訳される概念である。グールドナーの訳書では翻訳担当の栗原彬が「明識」という適切な用語を当てている。おそらく「明晰な自己認識」というニュアンスが込められている訳語と推察されるが、そう解釈した上で、ここでも基本的にこの訳語を採用したい。
グールドナーによれば、「明識」とは〈人間自身の時とともに変化していく関心・願望・価値にかかわりのある知識〉であり〈社会的世界における自分の「位置」についての認識を高めるような知識〉である。●2「情報としての知識」が客観性の名のもとに自分自身の存在を禁欲的に度外視してしまうのに対して、「明識としての知識」は、人びととの共生関係としてある社会的世界について、つねに自分自身との関係で反省的に理解するための知識──すなわち「反省的知識」──である。
このように、情報と明識の区別は、知識とそれを知る者との関係性に基づいている。だから「この知識が情報で、あの知識は明識だ」といういい方は適切ではない。むしろ「情報」と知る者との関係の深さが「情報」を「明識」にするのである。
したがって、こういういい方もできる。明識とは〈主体相関的〉な知識である、と。つまり、素朴な主観−客観図式で見ると、情報は客観的な知識である。これに対して、自明化された水準における経験的な個人的知識は主観的であるといえよう。これらに対して明識は、自分自身を計算に入れる点で客観的な情報ともちがうし、自分自身をも対象化する点で主観的な個人的知識とも決定的に異なる。明識は、あらゆる対象を自分自身の関数として自覚的に捉えるという点で〈主体相関的〉な知識であり、それは最終的には〈自分は何者であり、どこにいるのか〉を問いかける。
イデオロギーとしての技術と科学
グールドナーの考え方は、わたしたちの常識的な考え方と若干異なるかもしれないが、この種の議論としては、それほど突出したものではない。知識のありようを問う論者の多くが、大なり小なりかれと似たようなことを述べている。情報と明識に関する理解を深めるために、ここでふたりの論者の興味深い主張を検討しておこう。
まず取り上げたいのは、現代ドイツの代表的社会学者ユルゲン・ハバーマスの初期の論文集『イデオロギーとしての技術と科学』(一九六八年)である。●3
ハバーマスはこの本のなかで、学問(Wissenschaft)の動機(正確には「認識を導く利害関心」)を三つの類型に分けている。かれによると、そもそも何のために人間は「知る」ことを始めるのかというと、それは当然のことながら、みずからの生を維持するためであり、そのためには、現実に対して一定の態度をとらなければならない。そのような態度のとり方として三つあるというのである。その第一に挙げられているのが、自然科学を中心とする経験的で分析的な科学を形成する「技術的認識関心」である。グールドナーの「情報」つまり技術的知識の根っこにあるのがまさにこれにあたる。ハバーマスは、近代自然科学の根底に、さまざまな情報に基づいてできるだけ行動の結果を確実かつ広範囲にコントロールすることへの関心を見いだした。●4
よく「技術は使い方しだいだ」とか「どんな技術も平和利用すればよい」「技術それ自体は中立だ」といわれる。しかし、それはたぶん正確ではない。悪い使い方であれ、平和利用であれ、それはもともと技術それ自体に備わっている傾向性が顕在化したにすぎないと考えるべきだ。いかなる技術もそれが開発され研究され実用化されるときは、いつでも「よい」とされているものだ。たとえば原子力、化学兵器、軍事技術……。つまり、技術のあり方が「よい」か「悪い」かは歴史的価値判断であって、事後的に判定されるものである。いずれにしても技術と科学が一般の人びとに何らかの影響を及ぼさないことはない。「客観中立」というのは、じつは科学者の自己欺瞞なのである。
技術的知識の動機となっている、いわば〈対象をコントロールする意志〉は、わたしたちの日常生活にも浸透している。それはあまりにも深く浸透しているために、なかなか違和感を実感しにくいので、ここでは「対象」すなわち「コントロールされる側」の視点から説明してみたい。
たとえば、人間を「対象」とする現代医療の問題を見てみよう。人びとが医療のありようを非難するとき、よくいわれるのが「患者不在の医療」と「こまぎれ医療」だが、これらは、たまたま現在の医師たちが専門に走りすぎていたり人情味がない、といった現代特有の事情によって生じるのではない。それはもともと近代医学それ自体が内在していた傾向性──それは近代自然科学全体がもっている認識関心である──が、「コントロールされる側」の一般の人びとの眼にはっきりと映ずるようになっただけなのだ。
第一に、近代医学は、まず病気と患者を分離して考える。そして病気の方だけを徹底的に分析していく。したがって、医師が科学的に厳密であろうとすればするほど、患者の〈人間〉の側面を捨象して〈病気〉だけを細かくみていこうとするのは当然のなりゆきである。ときには患者に重い負担をかけることになるになるにもかかわらず検査データはなるべく多い方がいいとの発想もここに由来するし、若い医師であれば、教科書的にあつかいやすい〈病気〉だけを診ることになりがちになってしまう。これが「患者不在の医療」になる理由である。●5
第二に、近代医学は他の多くの自然科学と同様、全体を部分に分解してこまかく分析することによって真理に到達すると考える。そして「部分の欠陥を的確に指摘し、巧みに修理すればたちどころに全体としての人間が元通りになるはずであるという信念」に支えられている。●6いわゆる要素還元主義である。その結果、臓器別に診療科が細分化され、医師はますます専門への傾斜を深め、部品修理的医療すなわち「こまぎれ医療」へ傾斜してしまう。
近代医学のこのような傾向性は、病院死の圧倒的な増加のなかで、なんともやりきれない悲劇的な状況を日常化させている。医師である山崎章郎が『病院で死ぬということ』の前半部で赤裸々に描いているように、何よりも峻厳であるはずの死の場面において、近代医療は、ただコントロールの意志だけを貫徹するためだけに過剰な技術的処置を、静かに死者へと移行しつつある患者に施すのだ。●7
客観的な技術的知識を追求する近代自然科学は、人間に対して「中立」でもなければ「無害」でもない。それは特定の方向へ人間を向かわせしめる力をあらかじめもつのである。「イデオロギーとしての技術と科学」というタイトルは、おおよそこのような意味である。
以上述べたような「技術的認識関心」に対して、ハバーマスは第二の類型として「実践的認識関心」、第三の類型として「解放的認識関心」を挙げるのだが、ここでは、このふたつをまとめて〈反省的知識を導く認識関心〉にあたると位置づけておくにとどめておくことにし、もうひとりの論者の方に話を進めたい。
解釈する知識
次に、経済学者の佐伯啓思の一連の論考を見ていこう。●8佐伯の著作はいずれも経済学の〈社会学化〉の兆候として興味深いものがあるが、なかでも知識論に関するかれの概念は、わたしたちの議論にちょうど符合する。
かれもまた知識をふたつのありように分ける。そして克服されるべき主流派の知識を〈演技する知識〉と呼ぶ。このさい〈演技する知識〉は〈技術としての知識〉と〈遊びとしての知識〉のふたつからなり、両者の共鳴と反発をさしている。このうち〈技術としての知識〉は、もちろんグールドナーの「情報」つまり技術的知識、ハバーマスの「技術的認識関心」にほぼ対応する。さらにかれが〈遊びとしての知識〉あるいは〈遊戯的知識〉と呼ぶのは、ポストモダンを掲げる一連の現代思想のことである。●9
さて、佐伯が技術的知識をあえて〈演技する知識〉に位置づけるのは次のような理由からだ。悟性の神話を打ち立てることによって、宗教や神秘主義などの前近代の神話を打ちこわしてきた近代科学も、今日ではその客観性を無邪気に信じる人も少なくなっている。そのかわり人びとは悟性の神話をあくまで神話として納得した上で、効果のあるものは使ってみる、という実用的な態度に転じたという。したがって知識人あるいは科学者のしていることは、現実には科学の客観性の演出であり演技になってしまっている。経済学を中心とする政策科学化した社会科学は、その意味で〈演技する知識〉だというのだ。●10
これに対置されるのが〈解釈する知識〉である。佐伯は次のように述べる。「〈解釈する知識〉は、ひとつの時代の精神の古層を知ろうとする作業であり、時代精神の背後に隠された普遍的なものを発掘しようとする作業だ、といってよかろう。それは自己意識のもうひとつの形態である。というより、もはや自己意識(セルフ・コンシャスネス)ではなく自己理解(セルフ・アンダースタンディング)と呼ぶのがふさわしい。しかも〈解釈する知識〉は、その最も根源的な意味で、なおかつ〈演技する知識〉とは反対の意味で、ひとつの実践なのである。それは[中略]事物の意味を解釈することによって、隠された価値を次の時代へ伝承するという実践である。その意味でそれは、やみくもな進歩と新奇を信奉する時代にあっては反時代的な作業であり、しかしそのような時代にこそ必要とされる作業ではないか。」●11
縮約的な表現のため、いささか理解しにくいところもあるが、佐伯が示唆しているのは、自己理解のための〈解釈する知識〉の重要性である。経済学のように科学的客観性を〈演技する知識〉に対して、佐伯は〈解釈する知識〉を対置し、それをみずからの知的課題としているのがわかる。二〇年以上前に社会学内で大きな議論となったことは今だに古びていない、きわめて現代的な課題と認識されているのがわかる。そして、ありがたいことに、社会学はその解答を相当数すでに用意してくれているのである。
明識性をもつ科学
社会学を学ぶ意味は、技術的知識と異なる動機とスタイルをもつ反省的知識──すなわち明識──に接することにある。換言すれば、透明な自己理解の手がかりとなる「反省のことば」を学び・発見し・討論することにある。
そもそも社会学には情報の側面と明識の側面とがある。しかし、これまでの歴史的経緯から考えても、また現在の研究状況から考えても、社会学の供給する知識は明識性がとても強いといってさしつかえないだろう。とくに一九六〇年代以降の現代社会学には、情報=技術的知識が一見して中立的に見えてじつはきわめて権力的な性格をもっていること(対象をコントロールする意志!)に対して過敏であって、理論的立場を問わず明識志向が強いといえよう。この点で社会学は他の社会科学の比ではない。ここに現代社会学の最大の特質があり、そこがまた同時に社会学のわかりにくさの要因にもなってきた。つまり「役に立つ」情報(技術的知識)の側面はわかりやすいが、「役に立たない」明識(反省的知識)の側面は「何のために」学ぶのかがわかりにくいのである。
経験科学ではないが、人文学といわれる知識領域すなわち哲学・文学・宗教・思想などには、このような明識が存在した。本来の意味でのジャーナリズムもそうである。したがって、社会学はけっして孤立した営みではないはずだが、じっさいにはそうでなかった。つまり、経験科学でありながら明識を追究するというのは、なかなか困難な課題なのである。ところが近年では、とくに環境問題の深刻化がひとつのターニング・ポイントになって、自然科学の領域においても、主体相関的で反省的な知識を追求しようとする研究がでてきた。これによって、明識の科学としての社会学に対する理解も深まるかもしれない。
たとえば科学史研究者の村上陽一郎は、地球環境問題が従来の科学や技術のあり方に対するラディカルな挑戦を要求すると指摘している。かれは、伝統的な科学の知識を寄せ集めるだけではもはや不十分であり、知識の構造自体を変革しなければならないと述べる。では何がたりないか。「それは問題を作り出すエイジェントが、一方では、問題を記述し、解決すべきエイジェントと重なっている、という視点がないことであろう。」●12「地球環境問題は、それを問題にし、観察し、記述し、解明し、解決しようとしているエイジェントたるわれわれと、その問題を作り出し、その問題を論じるに当たって、観察され、記述され、解明されるべき対象としてのわれわれとが、重なっている、ということをどうしても免れられないような種類の問題なのである。」●13そのために伝統的な科学を超えて自己言及的な知識が必要であると指摘する。
また、高木仁三郎は、現代の巨大事故が、技術の後進性や未熟性の結果ではなく、まして偶然に生じるものでもなく、むしろ現代技術システムの本質からきているのではないかと主張し「事故学」を提唱している。●14たとえば十万回に一回の事故率といわれていたスペースシャトルが二五回目の打ち上げで爆発したように、巨大技術にとって事故はもはや「ノーマル・アクシデント」(正常な事故)である。●15これは、現代の巨大技術が複雑な相互作用性をもち、非常に緊密に作られているために、たったひとつの要因であっても共倒れや将棋倒しを起こして巨大事故にいたる可能性が高いためである。高木は、これら巨大事故を不幸な運命と捉えて、産業側や行政当局の責任だけをとりあげるのは適切でないと考える。「そうではなくて、私たちはこれらの事故を自分たちの社会の生み出したもの、自分たちに責任あるものとしてとらえ、この『不幸』を克服するために、正面から直視していかねばならない」とする。●16
たとえば「工学部において多くの学科は、生産(物)に主眼をおいて設立されているが、廃棄(物)に主眼をおいて設立されている学科はほとんどない」●17という指摘がある。このことは、日本において、いかに近代自然科学がわたしたちの反省を抑圧してきたかの証拠になるが、環境問題や巨大事故問題の深刻化によって、ごく一部とはいえ、変化の兆しがでてきたことは注目しておくべきだ。
社会学はよくも悪くも先端的であって、明識性もそのひとつである。本書での議論は社会学の内部にあっては復古的といってよいくらいだが、現在はその外部環境がずいぶんちがってきている。その意味では、社会学の明識性が生きてくる時代になったといえそうである。
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