野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(2)出会い編
■一流の大学生になるという決意
案外、カンちがいされていることだが、大学生活においてスタートラインは、みんないっしょである。キャンパスによってキャラクターは多様だが、学生の質をひとりひとり見たときに、それほど大きな差はない。こと大学での勉強に関して、有名大学の学生が優秀で、そうでない大学の学生が劣るわけではない。案外、そうではないのである。私大の場合だと、英語の勉強を3年早くやったか、これからやるかの差があるだけだと考えた方がいい。そして多くの学生は、大なり小なり後者である。義務教育が終わって高校に進学してすぐににスタートダッシュしたか、大学に入った今からスタートダッシュするかのちがいである。
理由の1つは、勉強の内容である。義務教育と高校では、勉強する内容は文部科学省が基本的に決めた内容である。文部科学省検定教科書を使用して、それに基づいた授業がなされ、それに基づいたさまざまな試験が課せられてきたということだ。これは国家が望む国民になるための教育内容である。それはそれで必要なことだ。
しかし、大学での勉強内容は、それとは大きく異なることが多い。「大きくずれる」と言った方がいいかもしれない。それは人文社会系のキャンパスや学部においては、かなりの割合でそうである。なぜかというと、大学での勉強は、そのまま学問の世界・科学の世界に直結しているからである。それらが文部科学省の推奨する内容とは限らないのは当然である。これは歴史や政治や社会や文化に関しては、かなりずれると考えた方がよい。だからスタートラインは同じなのである。
「一流の大学生になる」かどうかは、大学に入学した今からスタートダッシュできるかどうかにかかっている。もしあなたが推薦入学で入ったとしても、やる気さえあれば、一躍「一流の大学生」に躍り出ることができる。もしあなたが学力試験で入ったのであれば、油断をしないほうがいい。多少の英語ができるだけだと思って、謙虚に取り組むべきである。
もしあなたが第1志望の大学ではなく第2志望・第3志望の大学に入ったとしても、挫折する必要はないし、いじける必要もないし、まして、まわりの同級生たちをバカにしてはいけない。第1志望と言っても、所詮「ブランド」「プライド」「偏差値」「親の評価」「先生の評価」「マスコミの評価」の混合物にすぎない。第3志望となると、ほとんどその大学のことを理解しないで、スケジュールと偏差値という数字だけで大学を決めていることがほとんどだから「ここにいる」という意味を見いだせないのだろう。ちなみにどの大学でも、こういった学生たちはオープンキャンパスに来た経験がなく、その大学のことを入学式の日まで知らなかったということが多い。
というわけで、そんなものをいつまでも引きずっていないで、さっぱりと1から始めた方が賢明である。そういう雑多なものを引きずった学生は、新入生にもかかわらず表情が暗く、やる気もない。同級生とも打ち解けないので友達もできないまま、勉強にもすぐについて行けなくなるものである。何度も言うように、大学の勉強は「文部科学省によって配慮されてつくられたパッケージ」ではないのである。そのまま現実の学問や社会や文化に開かれたものなのであって、その分、容赦ないところがあるから、スタートダッシュしないと、あっという間に落ちこぼれてしまう。だから「この大学でやっていくんだ」という決意をもっていて、その大学のことをきちんと理解して入学動機も明確な自己推薦系の学生の方が、しばしば大きく伸びるのである。これがシビアな現実である。
■自己紹介する
デビューには気を使うべきだ。第一印象はけっこうモノを言う。それをくつがえすのは、けっこうたいへんだったりする。
だから、クラスや基礎演習のような単位での自己紹介は、とても貴重なチャンスである。大学生になれば、そのうちサークルや合コンでの自己紹介のようなものもこなさなければ一人前にはなれない。その第一歩である。これがやがて丸3年後の就職活動につながる。
「自分をプロデュースする」と考えればよい。べつに仮装人格(仮想人格)を演じるというのではない。「盛ってる」とか「自慢してる」と、多くの学生がそう見られることを過剰に怖れて「無作為な自分」を提示する。過剰に空気を読み合う時代の若者なので仕方ないとは同情するが、それではすぐに限界が来てしまう。「無作為な自分」なんて、他人から見れば、たいてい「つまらない人」だからである。
クラスなどでの公式の自己紹介の場合、次の選択肢から、いくつかをみつくろって提示してみよう。
(1)自分の名前の特徴・由来・これまでのニックネーム(自分も気に入っているものだけでよい)
(2)どこから来たか(育った地域・通った学校・その特徴)
(3)どうしてこの大学・この学部へ来たか(進学理由・ちょっとした事情・入学ルート・エピソード1・エピソード2・・・)
(4)どういう人か(性格らしきもの)
(5)これまでの活動(部活・委員・勉強)
(6)マイ・フェイバリット・シングス(私のお気に入り)
(7)何をしたいか・どうなりたいか・夢・あえての決意表明
(8)同級生・教員へのメッセージ(愛を込めて)
こういうことを「くだらない」と言うことなかれ。自分の基本情報である。これから手探りでおつきあいを始めようというのである。相手がどういう人なのか、どこまで自己開示をしているのか、信頼できるのかを判断するのであるから、ここは真剣勝負なのである。言いたくないことは言わなくてもいいし、不利になることは隠していていい。それを同級生に明かすときに友情が試されるのであろう。秘密はここぞというときに公開されるためにある。その上で強調したいのは、最初に言うべきことを言わなかったために縁が結べないままになってしまうことは避けるべきだ。だから、自己開示をできるだけ最初にやっておくことである。「恥ずかしいんですけど○○が好きです」でもかまわない。
そのさい、頭においてほしいことが2つある。
「私は、私と私の環境である」と、オルテガという哲学者が述べている。自分は自分だけで存在するのではなく、自分の環境との相互作用(交渉)の産物だというのである。「我思う、故に我あり」ではないのだ。この場合の「環境」とは、自分と関わりのある人びとや空間や自然などである。たとえば、留学生がいて、その生まれ故郷がかつて「戦争状態」にあったとすれば、それはその人の「人となり」を強く形成するにちがいない。それが「大災害」「大地震」「大津波」であることもあれば、「ヤンキーしかいない地域だった」とか「みんなオシャレな学校だった」とか「部活が人生のすべてだった」といったことが、自分というものを形成しているわけである。だから、自分の内面を話す必要はなく、自分を形作った環境について熱く語ればいいのである。それなら、そんなに構えることはないだろう。そして、そこから人生を進めるか、あるいは「脱却」する道を探して大学に来たということになるのだから、つまり自分の意志で環境を変更する選択をしたということを語ればよい。そして、どんな自分になりたいかを語れればいい。決意表明は「予言の自己成就」の第一歩として、ぜひすべきである。自分計画のヴィジョンを語れ。そのためには事前の準備が必要なのは言うまでもない。口からでまかせを言っても、それは自分に還ってくる。ちゃんとしたヴィジョンを語れるようにしよう。
第2に、自己提示の作法について。卑下したフリをしないこと。「ここしか受からなかったので、ここに来ました」とか「自分に声をかけて下さい」といったことを言うのは、謙虚なようでいて、じつは逆である。なぜなら、それらの裏では「ほんとうは自分にふさわしい大学があるはずなんだけどね」とか「そっちから声をかけろよ、答えてやるから」といったフレーズが鳴り響いているからである。私は「自分に声をかけて下さい」と言う学生を見ると「自分から声をかけろよ」と言いたくなるが、つまり自分では「無視されるリスク」を回避しながら、相手にリスクを負わせるという身勝手なことを平気でいう人には声をかけにくいだろうと思うが、どうだろう。
全体の人数と時間によるが、自己紹介はじっくりやったほうがいい。「長い自己紹介は嫌われる」と思う人が多いかもしれないが、私は逆だと思う。公開の場で自分を開示しない人は信用できない。そんな人には、かんたんに自分のことを話せないのではないだろうか。「あんた、こんなこと言ってたよね。じつは私もそうなんだよ」というトリガー(きっかけ、引っかかり)は多い方がいい。その意味では「自分に関するキーワード」をあらかじめ吟味しておいた方がいい。
■他己紹介、あるいは同級生とはどのような人か
お互いの名前と顔と特徴を覚えるのは難しい。多少の工夫が必要だ。グループを作って、そこで自己紹介を繰り返して、クラスに対してグループ単位で他己紹介をしてみよう。他人のことをその場で理解して、みんなに紹介するという能力はとてもたいせつである。こういうゲームじみたことをバカにしてはいけない。
最近は、こういうことを何回かシャッフルしておこなうことが多い。人をシャッフルすることで、出会いを増やすチャンスになるからである。その点では、これから始まるさまざまな作業もグループ単位ですることが、自分を知ってもらい他人を知る上では効果的である。
さて、同級生とはどのような人なのだろうか。大学に入る前にも同級生はたくさんいたわけだから、それなりに答はあると思う。では、大学の同級生はどうだろう。
そもそも大学の勉強は、ひとりでは無理である。卒業に必要な124単位をひとりで取得して卒業できると考えるのは大間違いだ。それはゴーマンというものである。私は毎年、定期試験の監督をたくさん引き受けているのだが、かりかり答案を書いている学生たちの姿には同情することしきりである。三コマ連続で試験を受けている学生たちもしばしば目撃する。これがまた試験問題を見ていると、専門家である先生たちは容赦ないのだ。 結論から言うと、大学の単位はネットワークで取っていくものである。「けしからん」と言うことなかれ。学問はきびしいのだ。それに大人扱いされるきびしさが加わり、重い自己責任が課せられる。
だからこそ、ともに勉強する人が必要なのだ。そしてまた、あなたを頼りにする友人もいるのだ。友達ネットワークを築いて、ともに勉強していかないと太刀打ちできない。だから「同級生とはぐれる」ことは致命的なのである。
今は、SNSがあって、入学式の前々から大学の学部別のコミュニティで知り合うということが当たり前になった。入学式当日が最初のオフ会になることも多いようだ。出会いがかんたんにできるという点では、いい時代だと思う。問題は、その後、どう維持するかであろう。飲み友達として低く流れることも多いと思うが、しかるべきときは協働して困難な試験を乗り越えよう。それだけに、しばしば一生つきあう人もいるはずだということを付け加えておきたい。
とりわけクラスやゼミというのは教員が不動に近いので、輪ができやすく、維持されやすいのだ。たとえ先生がいなくても、まるでドーナツのようにつながるものである。その場合、ドーナツは穴があるからドーナツなのだとも言える。このあたりがサークルとの違いではないだろうか。
■大学教授とはどのような人か
さて、同級生との出会い方について語ってきたが、もうひとつ大事な出会いがある。そう、教員との出会いである。大学の先生とは、どういう人なのか。
日常の業務は、高校の先生とたいしてちがわない。教えて、試験して、学生を指導して、報告書を書いて、引率して、会議して、学校のことを決めて、学生と語り合って・・・というあたりは同じである。これは教育職・事務職として同じだということだ。
ちがうのは大学教授は研究職でもあるということだ。
高校の先生でも研究活動をしている先生もいるし、大学の先生でもほとんど研究活動をしていない先生も(じつは)いる。前者の先生は、やがて大学で教えることもあるし、後者の先生も(じつは)昔はがんばって研究していたという事実があるはずである。
大学の先生には序列がある。この序列は業績に比例するようになっているということになっていて、じっさいにはいろいろあるのだが、じっさい給料表もちがう。学部にもよるが、おおかた次のようになっている。
教授、准教授、専任講師
しかし、医学系や理科系、そしてそれらを中心とする国立大学法人では序列はきびしいものの、私立文系であれば、それはたんに「なるタイミング」のちがいだったりする。「専任教員」は通常「教授会メンバー」であり、大学や学部のいろいろな組織の仕事をする。これがまた最近は大変なことになっていて、とても忙しいというのが普通である。秘密の仕事も多いので、ここに列挙できないのが残念なくらいである。 それに対して、兼任講師や非常勤講師や客員教授と呼ばれる先生は、その大学に所属しているとは言えない。他の大学の専任教員であったり、どこの専任でもなく、無所属で非常勤として教えている先生である。そのコマだけ教室に来て教えているという先生である。それはあくまでも大学との雇用関係の違いであって、授業そのものは専任教員と何も変わらない。きちんと教授会の業績審査を通っている先生たちである。 それらの先生に加えて、助教や大学院生や助手がいる。助教は給料をもらっている先生であり、大学院生は学費を払って研究している学生(院生)である。助手は職員に位置づけられている。いずれにしても「修行中の身」である。研究者である限り、この「修行」はずっと続くのであるが。 しかし、学生にとっては先生であり先輩であることには変わりなく、知識やその他いろいろを教えてくれる人たちである。物怖じせずに積極的に話をするとよい。
掛け値なく、ほんとにキャンパスは出会いの場である。だから、なにはともあれキャンパスに行くことが大事なのである。
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