野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』
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例 ハバーマス、ハーバーマス
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引用文掲示
●1 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』丸山高司・丸山徳次・厚東洋輔・森田数実・馬場孚瑳江・脇圭平訳(未来社一九八七年)四〇〇ページ。
●2 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)三六四ページ。
●3 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。
12-1: 序論
●1 消費社会における自我形成に関しては、山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生──消費社会の美学』(中公文庫一九八七年)において、現代の購買行動が「商品との対話を通じた一種の自己探究の行動」であると指摘している。九七ページ。また最近では、上野千鶴子が『増補〈私〉探しゲーム──欲望私民社会論』(ちくま学芸文庫一九九二年)において、数ある商品の中からわたしたちが特定のモノを選択することは、表現すべき〈私〉を探すためであることを、さまざまな角度から分析している。一二三ページほか。
●2 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳(紀伊國屋書店一九七九年)一〇一ページ。
●3 テクノクラートの定義については、梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)七八ページ。
●4 前掲書四─五ページ。
●5 前掲書六ページ。
●6 栗原彬「市民社会の廃墟から──『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年一〇月号。
●7 前掲論文四八ページ。
●8 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
●9 鷲田小彌太『大学教授になる方法』(青弓社一九九一年)。鷲田小彌太『大学〈自由化〉の時代へ──高度教育社会の到来』(青弓社一九九三年)。桜井邦朋『大学教授──そのあまりに日本的な』(地人書館一九九一年)。桜井邦朋『続大学教授──日々是好日』(地人書館一九九二年)。
●10 新堀通也、前掲書三一─三二ページ。
●11 前掲書。
●12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。
●13 新堀通也、前掲書一二二─一二六ページ。
●14 税金対策としての法人税脱税の実態については、富岡幸雄「不公正税制」文芸春秋編『日本の論点』(文芸春秋一九九二年)。
●15 過労死弁護団全国連絡会議編『過労死!』(講談社文庫一九九二年)。
●16 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)。小笠毅『就職を拒否される若者たち』(岩波ブックレット一九九二年)。
●17 宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』(世界思想社一九八六年)。
●18 たとえば宝月によると、大規模な薬害事件の生じたころの製薬企業は薬事行政や報道などの外部の環境を甘くみていたが、現在はむしろ過敏になっているという。しかもそれらを不当とみなす傾向が強いため、戦略的に対処することが多く、みずからをきびしく律する用意は乏しい。一般に、企業が行政機関の監視や指導や審査能力、あるいは消費者や世論の反作用といった統制環境の能力を低く評価したり、不当とみなす度合が高いほど、企業逸脱に関与する可能性も高まるという。宝月誠編、前掲書一二二ページ。
●19 富家恵海子『院内感染』(河出書房新社一九九〇年)。富家恵海子『院内感染ふたたび』(河出書房新社一九九二年)。
●20 『院内感染ふたたび』七三ページ。
●21 保険薬の場合、それを使用することによって健康保険から病院に支払われる金額と、じっさいのその薬の実売価格とのあいだに差がある。後者の方が安いので、薬を使用することによって生じる薬価差益は、直接、病院の収入になる。当然、単価の高い薬ほど薬価差益が大きいので、病院は高い薬を大量に使うようになる。これが、患者サイドの薬願望と相乗することによって、いわゆる「薬漬け医療」が常態化してきたのである。
●22 『院内感染ふたたび』七三ページ。
●23 『院内感染』一二八ページ。
12-2: 第一章 反省的知識の系譜
●1 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』岡田直之ほか訳(新曜社一九七五年)第十三章「社会学者として生きること/自己反省の社会学をめざして」(栗原彬訳)。
●2 前掲訳書二一五ページ。ただし訳文を若干調整した。
●3 ユルゲン・ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』長谷川宏訳(紀伊国屋書店一九七〇年)。なお本書本文では「ハバーマス」と表記する。
●4 前掲訳書一六〇ページ。
●5 砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書一九八三年)五四ページ以下。
●6 前掲書七三ページ。
●7 山崎章郎『病院で死ぬということ』(主婦の友社一九九〇年)。
●8 佐伯啓思『隠された思考──市場経済のメタフィジックス』(ちくま学芸文庫一九九三年)。
●9 遊戯的知識については、佐伯啓思『産業社会とポスト・モダン』(筑摩書房一九八九年)第二章「遊戯的知識論──ポスト・モダン時代のソフィストたちへ」。
●10 『隠された思考』一六─二〇ページ。
●11 『隠された思考』二二─二三ページ。
●12 村上陽一郎「新たなる《自然》/新たなる《科学》」『エイティーズ[八〇年代全検証]――いま、何がおきているか』(河出書房新社一九九〇年)三一ページ。かれはこの論考で「地球家政学」(global house-keeping)構想を提出している。これは事実上自然科学の社会学化である。
●13 前掲論文三二ページ。
●14 高木仁三郎『巨大事故の時代』(弘文堂一九八九年)。科学者によるものではないが、巨大事故について同じような問題意識をもって集中的かつ反省的に調査したドキュメントとして次の二作を挙げておきたい。柳田邦男『死角──巨大事故の現場』(新潮文庫一九八五年)。吉岡忍『墜落の夏──日航123便事故全報告』(新潮文庫一九八九年)。
●15 これは社会学者チャールズ・ペロウの同名書から採られている。
●16 高木仁三郎、前掲書二〇八ページ。
●17 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)一二ページ。
●18 代表的な理論家として今田高俊がいる。その理由については、今田高俊『モダンの脱構築──産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)二〇七ページ。
●19 ただし他の訳語を用いている研究者の記述を利用するときは、当然そのままである。なお、リフレクション概念に対する本書のとりあつかいの方針については「あとがき」に述べておいた。
●20 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)一四二─一四三ページ。このことは訳語解説でも指摘されている。前掲訳書xivページ。
●21 たとえば、エスノメソドロジーでは、reflexivityをかなり独特の用法で使っている。したがって、日本では「相互反映性」「文脈状況再帰性」「循環性」などと、相当熟慮された訳語が発案されている。
●22 「解釈的パラダイム」と呼ばれたり、「理念主義」と呼ばれることもある。富永健一『現代の社会科学者──現代社会科学における実証主義と理念主義』(講談社学術文庫一九九三年)。
●23 反省概念の哲学的経緯とその意義については、ユルゲン・ハーバーマス『認識と関心』奥山・八木橋・渡辺訳(未来社一九八一年)を参照されたい。
●24 ミード、前掲訳書。
●25 ただし、あくまでも、情報そのものが移動するのではないから、これはどのような場合にも近似的なものにすぎない。なお、ブルーマーは「身ぶり会話」の水準を「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と呼び、ミードが「有意味シンボルの使用」と呼んだ反省的な水準を「シンボリック相互作用」(symbolic interaction)と呼ぶ。ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論──パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一〇ページ。
●26 たとえばミードは次のように述べている。「精神は、経験の社会的過程あるいは社会的文脈のなかで、身振り会話によるコミュニケーションをとおして生まれるのであり、コミュニケーションが精神をとおしていとなまれるのではない。」ミード、前掲訳書五六ページ。
●27 ブルーマー、前掲訳書一〇三ページ。
●28 ブルーマー、前掲訳書八一ページ。
●29 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)二〇ページ。
●30 ギデンス、前掲訳書二〇ページ。
●31 ミード、前掲訳書三四〇ページ。
●32 前掲訳書三三九ページ。ただし一部修整した。
●33 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』藤沢賢一郎・岩倉正博・徳永恂・平野嘉彦・山口節郎訳(未来社一九八六年)二五三ページ。
●34 カール-オットー・アーペル『哲学の変換』磯江景孜ほか訳(二玄社一九八六年)。
●35 ハーバーマス、前掲訳書一八二ページ。ただし一部の用語法を修整した。
●36 阿閉吉男『ウェーバー社会学の視圏』(勁草書房一九七六年)。「地平」という訳語もあるが、わたしは「視圏」の方が的確だと考えている。なお、この概念は現象学的社会学の重要概念でもある。
12-3: 第二章 行為論の視圏──脱物象化と反省的行為
●1 マス・メディアは非常に高い割合で官公庁の見解をそのまま増幅して伝える。官公庁の見解は基本的に「テクノクラートの視角」からなされているから、それをうのみにすることはジャーナリズムの理念から見て問題がある。これを原寿雄は「発表ジャーナリズム」と呼ぶ。原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)。
●2 E・ベック=ゲルンスハイム『出生率はなぜ下ったか──ドイツの場合』香川檀訳(勁草書房一九九二年)の訳者による「解説」。なおこの本の本文のドイツの分析は近未来の日本の少子化を考える上で参考になる。「板ばさみ」については、江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房一九九一年)「出生率低下と〈家族の幸福〉」。
●3 森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学(三訂版)』(培風館一九九三年)一八六─一九六ページ。
●4 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)一〇ページ以下。
●5 M・ナタンソン編『アルフレッド・シュッツ著作集第二巻社会的現実の問題[II]』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九八五年)三四─三七ページ。
●6 ウォルター・リップマン『世論』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)。 A・C・ザィデルフェルト『クリーシェ――意味と機能の相剋』那須壽訳(筑摩書房一九八六年)。
●7 マルクス、エンゲルス編『資本論(一)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九六九年)一二九ページ以下。
●8 マルクス、エンゲルス編『資本論(九)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九七〇年)三二ページ。
●9 マックス・ウェーバー『宗教社会学』武藤一雄・薗田宗人・薗田坦訳(創文社一九七六年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。
●10 デュルケーム『社会分業論』田原音和訳(青木書店一九七一年)八二ページ。ただし命題風に訳し直した。
●11 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。
●12 ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳(みすず書房一九六一年)第十一章。本書ではごく初歩的な説明にとどめざるをえないが、社会現象の特質を理解するにはたいへん重要な現象である。くわしい議論としては、徳岡秀雄『社会病理の分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)。
●13 マートン、前掲訳書三八二ページ。
●14 前掲訳書三九〇ページ。ただし若干の用語を改めた。
●15 ランドル・コリンズ『脱常識の社会学──社会の読み方入門』井上俊・磯部卓三訳(岩波書店一九九二年)。
●16 ピーター・バーガー、スタンリー・プルバーグ「物象化と意識の社会学的批判」山口節郎訳、現象学研究会編集『現象学研究2』(せりか書房一九七四年)一一二─一一四ページ。
●17 ブレヒト「実験的演劇について」千田是也訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか――ブレヒト演劇論集』(白水社一九六二年)一二三ページ。
●18 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第三章「『新しい社会問題』とテクノクラシー」とくに五九─六三ページ。この問題については、宇沢弘文『「豊かな社会」の貧しさ』(岩波書店一九八九年)「Ⅳ自動車は都市を破壊する」も参照。
●19 マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)四〇ページ。なお、マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』海老原明夫・中野敏男訳(未来社一九九〇年)三八ページも参照。
●20 大鐘武訳編『ジンメル初期社会学論集』(恒星社厚生閣一九八六年)三〇ページ。
●21 P・L・バーガー、T・ルックマン『日常世界の構成──アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳(新曜社一九七七年)一〇五ページ。
●22 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。
●23 A・ギデンス『社会理論の現代像』宮島喬ほか訳(みすず書房)一二〇ページ。
●24 ノーアム・チョムスキー『言語と精神(新装版)』川本茂雄訳(河出書房新社一九八〇年)一八二ページ。
●25 ウェーバー『社会学の基礎概念』前掲訳書三五ページ以下。
●26 マートン、前掲訳書五八─五九ページ。
●27 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳(岩波文庫一九八九年)前掲訳書一三四ページ。
●28 ゲオルク・ジンメル「文化の概念と悲劇」『文化論』阿閉吉男編訳(文化書房博文社一九八七年)。
●29 今田高俊『自己組織性──社会理論の復活』(創文社一九八六年)。以下の説明はおもに二六四─二七七ページによる。
●30 前掲書二六四ページ。
●31 前掲書二六七ページ。
●32 今田は、これらの行為類型はあくまで分析的なもので、具体的な行為には多かれ少なかれこの三種の行為類型がふくまれていると考えている。要は、どれが前面にでてくるかである。前掲書二六五ページ。
●33 梶田孝道、前掲書六三─六七ページ。
●34 前掲書六三ページ。
12-4: 第三章 知識過程論の視圏──社会はいかにして可能か
●1 ジンメル『社会学──社会化の諸形式についての研究(上巻)』居安正訳(白水社一九九四年)三五〇ページ。
●2 前掲訳書三五二ページ。
●3 前掲訳書三五二ページ。
●4 P・L・バーガー、T・ルックマン『日常世界の構成――アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳(新曜社一九七七年)二三─二四ページ。
●5 前掲訳書三九ページ。
●6 K・ライター『エスノメソドロジーとは何か』高山眞知子訳(新曜社一九八七年)三─一三ページ参照。また鳥越皓之編『環境問題の社会理論──生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)三一─三六ページ、八一─八二ページも参照。
●7 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)六─一〇ページ。あるいはA・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)一三六─一三八ページ。
●8 ギデンスによる「共有知識」(mutual knowledge)の定義。アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一五一─一五二ページ。
●9 前掲訳書一二六ページ。
●10 ジンメル『社会分化論 社会学』居安正訳(青木書店一九七〇年)二〇五─二二七ページ。あるいはジンメル『社会学(上巻)』(一九九四年)三七─五七ページ。ジンメルのこの小論は、社会学内部において必ずしも十分な評価をされてこなかったにもかかわらず、その執筆時期から見ても、その理論的な深みから見ても、あるいはその理論的な展開可能性から見ても、二十世紀の理論社会学共通の始発点となりうる重要な知見がふくまれている。ジンメル研究や役割理論の文脈では論じられることが多い論文で、たとえばハインリヒ・ポーピッツ「社会学理論の構成要素としての社会的役割の概念」J・A・ジャクソン編『役割・人間・社会』浦野和彦・坂田正顕・関三雄訳(梓出版社一九八五年)があるが、それ以外の文献を挙げると、システム論的問題関心に対してはルーマンが、現象学的社会学の問題関心に対してはオニールが、この小論を自説に位置づけている。ニクラス・ルーマン『社会システム理論の視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳(木鐸社一九八五年)。ジョン・オニール『言語・身体・社会──社会的世界の現象学とマルクス主義』須田朗・財津理・宮武昭訳(新曜社一九八四年)。
●11 ジンメル、前掲訳書(一九七〇年)二〇七ページ。あるいはジンメル、前掲訳書(一九九四年)三九ページ。
●12 前掲訳書(一九七〇年)二一一ページ。あるいはジンメル、前掲訳書(一九九三年)四三ページ。
●13 前者はゲルハルトの呼び方。後者はオニールの呼び方。
●14 ギデンス、前掲訳書一一〇─一一一ページ。
●15 前掲訳書二二一ページ。
●16 佐伯啓思『産業文明とポストモダン』(筑摩書房一九八九年)第三章「政策知識論──大衆社会における知識と政策」。佐伯啓思『「シミュレーション社会」の神話──意味喪失の時代を斬る』(日本経済新聞社一九八八年)第6章にも同様の説明がある。
●17 『産業文明とポストモダン』九四ページ。社会学的にいうと、これは正確には「予言の自己否定」であるが、循環構造そのものはほぼ同一である。
●18 前掲書九五ページ。
●19 前掲書九六ページ。佐伯はここで流行現象についても同じ循環構造を指摘している。「流行という流れの中に写し出された自己イメージが先行し、その集合が現実の世界を作り出してしまう。流行というスペクタクルに浮び上がったモノの記号的イメージが、現実のモノの世界を作り上げてしまう。いずれにせよ、『自己主題化』というメカニズムが現実(リアリティ)を産み出すわけである。」前掲書二〇五ページ。
●20 野村一夫「ジンメルと役割理論――受容史的接近」『社会学史研究』第九号(いなほ書房一九八七年)。なお「役割現象論」という用語はウータ・ゲルハルトにヒントをえた。Uta Gerhardt, Toward a Critical Analysis of Role, in: Social Problems 27(5), June 1980. Uta Gerhart, Georg Simmels Bedeutung fu`r die Geschichte des Rollenbegriffs in der Soziologie, in: Hannes Bo`hringer und Karlfried Gru`nder(Hg.), A`sthetik und Soziologie um die Jahrhundertwende: Georg Simmel, Frankfurt am Main, S.71-83.
●21 カール・レーヴィット『人間存在の倫理』佐々木一義訳(理想社一九六七年)。なお本書では「レーヴィト」と表記する。レーヴィトの「として規定」については、ふたりの日本人哲学者による理論展開が有名である。和辻哲郎『倫理学──人間の学としての倫理学の意義及び方法』岩波講座哲学[概説](岩波書店一九三一年)。『倫理学』上巻(岩波書店一九三七年・改版一九六七年)。廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(講談社学術文庫一九九一年)。
●22 引用文はE・ゴッフマン『行為と演技──日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)四ページによる。
●23 C.H.Cooley, Human Nature and the Social Order,1902, p.184.
●24 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。
●25 鶴見俊輔『アメリカ哲学(上)』(講談社学術文庫一九七六年)一八ページ。
●26 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。なお本書が、リフレクションの訳語として「自省」というキレと鮮度のいいことばを採用しないで、「反省」といういささか凡庸で鮮度の悪いことばをあえて使うのも、「反射」「反照」のイメージを残したいからである。「自省」の「自」は「自己」の意味であり、システム論的主体概念が前提されていると考えられるが、わたしはそれよりも主体間に生じる緊張関係を暗示する「反」にひかれる。
●27 E・ゴッフマン『行為と演技──日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)。
●28 ここで「既成の役割理論」と呼んだのは、人類学者ラルフ・リントンの「地位と役割」に準拠した役割理論のことである。代表者としてタルコット・パーソンズとラルフ・ダーレンドルフを挙げておこう。ただし両者はこれを超出する論点をふくんでおり、むしろここであげた三人の役割理論の通俗的受容をさすというべきだろう。
●29 ジンメル「俳優の哲学」『ジンメル著作集11断想』土肥美夫・堀田輝明訳(白水社一九七六年)二七三ページ。なおこの小論は未完の草稿である。
●30 E・ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』佐藤毅・折橋徹彦訳(誠信書房一九八五年)。
●31 前掲訳書一一五ページ。ただし若干修正した。
●32 前掲訳書一一六─一一七ページ。ただし若干の字句を改めた。
●33 ギデンス、前掲訳書二四ページ、四三ページなどによる。
●34 前掲訳書一四ページ。
●35 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)五四ページ。
●36 前掲訳書二七六ページ。ただし訳書ではreflexively monitorが「自省的に評価する」となっている。また『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』の邦訳では「反照的モニター」と訳されている。本書では基本的に「反省」に訳語を統一しているので以下の訳文や説明についても「反省的評価」に統一した。
●37 前掲訳書二七七ページ。
●38 栗岡幹英「薬害被害者の意味世界の諸相」宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』(世界思想社一九八六年)。のちに栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社一九九三年)に「薬害被害者の意味世界」として転載。
●39 前掲論文の要約。
●40 ふつう「意識の変化」と呼ばれているのは、基本的には知識の変化と感情の変化であり、両者が不用意に混合されている。「意識の変化」だと、何か心の持ちようで何とでもなるかのような錯覚が与えられてしまう。
12-5: 第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション
●1 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。
●2 権力は「産出的」であるというフーコー、権力の「調達」「保障」の機能の重要性を喚起する藤田弘夫の議論を参照。ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)。藤田弘夫『都市の論理──権力はなぜ都市を必要とするか』(中公新書一九九三年)。もっとも洗練された社会学的権力論として、ニクラス・ルーマン『権力』長岡克行訳(勁草書房一九八六年)。ただし本書の議論はこれらの研究と必ずしも沿うものではない。
●3 ルーマン、前掲訳書「日本語版への序文」参照。
●4 すぐれたジャーナリストは大なり小なりこの「腹立たしい事実」に直面している。その一例として、鎌田慧『ドキュメント隠された公害──イタイイタイ病を追って』(ちくま文庫一九九一年)。
●5 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)五〇─五五ページ。船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)。舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題──東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(有斐閣一九八八年)。
●6 梶田孝道、前掲書viページ。
●7 船橋晴俊ほか『新幹線公害』七七ページ以下。
●8 前掲書八〇ページ以下。受益圏には圧力集団や利害団体や集約的代弁者としての公的機関(具体的にはテクノクラート)が存在するが、受苦圏には被害者運動組織以外に存在しないこともコミュニケーションを困難にする要素である。梶田孝道、前掲書一一ページ。
●9 近年のジェンダー論では一連の男性論が盛んになっており、男性の方が抑圧が深いという議論がなされている。これはこれで傾聴すべきものをもっているが、ここでは省略する。渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房一九八六年)。なお「男らしさのジレンマ」はコマロフスキーの著書名である。M・コマロフスキー『男らしさのジレンマ──性別役割の変化にとまどう大学生の悩み』池上千寿子・福井浅子訳(家政教育社一九八四年)。
●10 ここで「古い」と述べたのは「伝統的」という意味ではなく「一世代か二世代古い」という意味である。一般に性別役割分担は「伝統的」なことと考えられているが、じっさいに庶民レベルにおいてそれが自明化したのは高度経済成長期の一九六〇年代である。つまり、産業界の性別役割分業に対応して家族内の性別役割分担が確立したのである。上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店一九九〇年)一九七ページほか。
●11 江原由美子『フェミニズムと権力作用』(勁草書房一九八八年)。
●12 栗原彬「市民社会の廃墟から──『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年十月号五四─五五ページ。
●13 江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房一九八五年)七八ページ。
●14 前掲書三二ページ。このあと、フェミニズムの場合それが家父長制であると指摘する。
●15 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)一三一ページ。
●16 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫一九九三年)二三─二九ページ。熊沢誠『日本的経営の明暗』(筑摩書房一九八九年)も参照されたい。
●17 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』五九─六〇ページ。
●18 前掲書。
●19 間庭充幸、前掲書五一ページ。
●20 「構造的暴力」概念については、ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳光男・塩屋保・酒井由美子訳(中央大学出版部一九九一年)。
●21 森田洋司「いじめの四層構造論」『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集。
●22 森田洋司、前掲論文。
●23 森田洋司「いじめに四層構造」『朝日新聞』東京本社版一九九一年四月六日付夕刊4版。
●24 徳岡秀雄『社会病理への分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)一八二ページ。
●25 「正常」についての古典的議論としては、デュルケム『社会学的方法の規準』宮島喬訳(岩波文庫一九七八年)。
●26 ジンメル『社会分化論 社会学』居安正訳(青木書店一九七〇年)。ジンメル『社会学──社会化の諸形式についての研究(上)』居安正訳(白水社一九九四年)。マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。
●27 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。
●28 ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)一二一-一二四ページ。たいへん乱暴ないい方をすれば、ここで問題とされている「権力作用」は、かつてウェーバーが「規律」(Disziplin)と呼び、「価値の内面化」を重視したパーソンズが「社会システム」(social system)と呼んだものである。ただ、ウェーバーの場合は「他人の抵抗を排してでも」という権力概念の定義の方がひとり歩きしてしまい、パーソンズはそれを社会のすべてと見なしてしまって批判を招いてしまった。フーコーはそれに当たるものをまったく別の知的領域で新たに「産出的な権力」として議論したのである。それ以降、現代社会学ではエスノメソドロジーが注目していたこともあって、現在このように「権力作用」として感受されるようになったのである。なお、フーコーの権力論の位置づけについてはさまざまな捉え方があり、異論も生じやすいと思われるが、この点については次のものを参照されたい。アクセル・ホネット『権力の批判──批判的社会理論の新たな地平』河上倫逸監訳(法政大学出版局一九九二年)第六章。
●29 アンソニー・ギデンス『社会理論の最前線』友枝敏雄・今田高俊・森重雄訳(ハーベスト社一九八九年)三三ページ。
●30 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)五五─五六ページ。
●31 栗原彬、前掲論文。
●32 デニス・マクウェール『コミュニケーションの社会学――その理論と今日的状況』山中正剛監訳、武市英雄・松木修二郎・山田實・山中速人訳(川島書店一九七九年)一五ページ以下。
●33 野村一夫「社会学的反省の理論としてのジャーナリズム論」『新聞学評論』第三六号(日本新聞学会一九八七年)。
●34 クラウス・ミューラー『政治と言語』辻村明・松村健生訳(東京創元社一九七八年)。
●35 前掲訳書三〇ページ。
●36 前掲訳書三〇ページ。
●37 前掲訳書六一ページ以下。
●38 前掲訳書三〇ページ。
●39 前掲訳書一一六ページ。
●40 グレン・フック『軍事化から非軍事化へ――平和研究の視座に立って』(御茶の水書房一九八六年)二一ページ。
●41 前掲書三三ページ。
●42 清水義範『国語入試問題必勝法』(講談社文庫一九九〇年)。これはパロディというより、かぎりなく実態に近い小説である。
●43 J・T・クラッパー『マス・コミュニケーションの効果』NHK放送学研究室訳(日本放送協会一九六六年)。
●44 日本でこの呼び方が流通したのはエリーザベト・ノエル-ノイマンの日本での講演論文「強力なマス・メディアという概念への回帰」の影響が大きい。E.Noelle-Neumann, Return to the Concept of Powerful Mass Media, Studies of Broadcasting 9, 1973.
●45 マクウェール『マス・コミュニケーションの理論』竹内郁郎・三上俊治・竹下俊郎・水野博介訳(新曜社一九八五年)。児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)。入門的なものとして田崎篤郎・児島和人編著『マス・コミュニケーション効果研究の展開』(北樹出版一九九二年)。
12-6: 第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理
●1 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)三三九─三四〇ページ。ただし一部訳注を省略。
●2 前掲訳書三三九─三四〇ページ。
●3 前掲訳書二九七ページ。
●4 小谷敏「G・H・ミードとアメリカ社会──『等質性のユートピア』を超えて」片桐雅隆編『意味と日常世界──シンボリック・インタラクショニズムの社会学』(世界思想社一九八九年)。
●5 吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』(弘文堂一九九二年)。
●6 ミード、前掲訳書三三九ページ。
●7 小谷敏、前掲論文一四ページ。
●8 『長谷川如是閑選集』第四巻(栗田出版会一九七〇年)三九九ページ。
●9 A・W・グールドナー『社会学のために(上)』村井忠政訳(杉山書店一九八七年)。カール-オットー・アーペル『哲学の変換』磯江景孜ほか訳(二玄社一九八六年)。ハーバーマス「コミュニケーション能力の理論のための予備的考察」ユルゲン・ハーバーマス、ニクラス・ルーマン『ハーバーマス=ルーマン論争/批判理論と社会システム論』佐藤嘉一・山口節郎・藤沢賢一郎訳(木鐸社一九八四年)。ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』藤沢賢一郎・岩倉正博・徳永恂・平野嘉彦・山口節郎訳(未来社一九八六年)。
●10 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』二二─二三ページ。
●11 ハバーマスはいたるところで「了解は目的因(テロス)として人間の言語に内在している」と述べている。前掲訳書二四ページ。
●12 ハーバーマス「予備的考察」一六八ページ。
●13 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』四七ページの「水を一杯もって来てくれないか」の例を参照してつくった。
●14 その悲劇的な一事例として、稲葉哲郎『裁判官の論理を問う──社会科学者の視点から』(朝日文庫一九九二年)。コミュニケーションとしての裁判過程については、なお述べたいことがあるが、ここでは紙幅の余裕がない。かわりにふたつの著作を紹介しておきたい。栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社一九九三年)。樫村志郎『「もめごと」の法社会学』(弘文堂一九八九年)。
●15 船橋晴俊「『公共性』と被害者救済との対立をどう解決するか」船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)二三九─二四八ページ。
●16 花田達朗「空間概念としてのO`ffentlichkeit──ハーバーマスにおける公共圏とコミュニケーション的合理性」『ソシオロジカ』一五巻二号(一九九一年)。花田達朗「公的意味空間論ノート」『新聞学評論』四〇号(日本新聞学会一九九一年)。花田達朗「公共圏と市民社会の構図」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)。
●17 ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。この訳書でいう「公共性」(O`ffentlichkeit)は基本的に「公共圏」のことである。したがって「公共性」を「公共圏」に置き換えて読むと論旨がすっきりするケースが多い。たとえば「われわれは私生活圏と公共性という区別を立てる」(前掲訳書五〇ページ)といった一節もこの置き換えなしには理解しにくい。この点に関しては、空間概念として解釈する花田達朗の前掲論文から大きな示唆をえた。なお、市民的公共圏をめぐるハバーマスの理論については、花田達朗の前掲諸論文ならびに斎藤純一「政治的公共性の再生をめぐって──アーレントとハーバーマス」藤原保信・三島憲一・木前利秋編著『ハーバーマスと現代』(新評論一九八七年)。横田栄一『市民的公共性の理念──カント―ファイヤーアーベント―アーペル―ハーバーマス』(青弓社一九八六年)。佐藤慶幸「対話的コミュニケーション行為と公共性──ハーバーマス理論を中心に」田野崎昭夫・広瀬英彦・林茂樹編『現代社会とコミュニケーションの理論』(勁草書房一九八八年)。この分野の古典として、ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳(中央公論社一九七三年)。
●18 ハーバーマス、前掲訳書五六─五七ページ。
●19 ハーバーマス、前掲訳書二三四ページ。
●20 L・コーザー『知識人と社会』高橋徹監訳(培風館一九七〇年)。
●21 前掲訳書二二ページ。
●22 ハーバーマス、前掲訳書一五ページ。ただし一部修整した。ここで「われわれの社会」といわれているのは「近代社会」のことである。市民的公共圏の理念は近代特有のものである。
●23 木前利秋「システムと生活世界──偶発性の社会学」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)三〇ページ以下。
●24 ハーバーマス、前掲訳書一一六ページ。ただし「公共性」を「公共圏」に改めた。なお、この点をふくめて、最近ハバーマスが三十年前の自著を論じた小論がある。ユルゲン・ハーバーマス「公共性の構造転換1・2──一九九〇年新版への序文」山田正行訳『みすず』三六四・三六五号(みすず書房一九九一年)。
●25 コーザー、前掲訳書二六─二七ページ。
●26 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)二四八ページ。
●27 この点についてはジンメルの社交論が参照されるべきである。とくにG・ジンメル『社会学の根本問題──個人と社会』阿閉吉男訳(現代教養文庫一九六七年)八九─九四ページ。
●28 ハーバーマス『公共性』前掲訳書三三四─三三五ページ。
●29 ハーバーマス、前掲訳書三三四─三三五ページ。
●30 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)第三章「博識の市民──知識の社会的配分に関する小論」。A・ブロダーゼン(編)『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)「見識ある市民──知識の社会的配分に関する一試論」。
●31 前掲訳書(桜井訳)五〇ページ。
●32 前掲訳書五一ページ。
12-7: 第六章 高度反省社会への課題
●1 井上俊「日本文化の一〇〇年──『適応』『超越』『自省』のダイナミクス」『悪夢の選択──文明の社会学』(筑摩書房一九九二年)。
●2 前掲書九四─九五ページ。
●3 前掲書一〇四ページ。
●4 前掲書一一七ページ。
●5 八木敏行『情報公開──現状と課題』(有斐閣一九八六年)「序論 いまなぜ情報公開か」とくに三五─三七ページ。
●6 自由人権協会(編)『情報公開法をつくろう──アメリカ情報自由法に学ぶ』(花伝社一九九〇年)一二三─一六五ページ。
●7 近年、企業社会において問題になっている「ディスクロージャー」は証券取り引きのさいの開示のことであり、きわめて狭い概念であるので注意してほしい。なお、日本の実情については、朝日新聞情報公開取材班『日本での情報公開──開かれた政府を』(朝日新聞社一九八一年)。十年以上前の本だが、残念ながら今だに通用する記述が多い。
●8 石坂悦男・桂敬一・杉山光信(編)『メディアと情報化の現在』(日本評論社一九九三年)に収められた二本の論文を参照。塚本三夫「『高度情報社会』における情報操作の問題──マス・メディアの総合情報産業化は何をもたらすか」ならびに柳井道夫「情報化と世論──環境認知の視点から──情報の受け手が遭遇する情報環境の変化」。
●9 ただし、テレビ・ニュースの論調がこれらの動きを誘発させたわけではない。
●10 H・E・フリーマン、S・レヴァイン、L・G・リーダー編『医療社会学』日野原重明・橋本正己・杉政孝監訳(医歯薬出版一九七五年)二七五─二七七ページ。園田恭一・米林喜男編『保健医療の社会学――健康生活の社会的条件』(有斐閣選書一九八三年)一六五─一八二ページ。砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書一九八三年)四五─五〇ページ。
●11 エリオット・フリードソン『医療と専門家支配』進藤雄三・宝月誠訳(恒星社厚生閣一九九二年)第五章。
●12 以下の説明では次の文献を参照した。水野肇『インフォームド・コンセント──医療現場における説明と同意』(中公新書一九九〇年)。星野一正『医療の倫理』(岩波新書一九九一年)。ジョージ・J・アナス『患者の権利』上原鳴夫・赤津晴子訳(日本評論社一九九二年)。砂原茂一、前掲書。
●13 アナス、前掲訳書三五ページ。
●14 前掲訳書四一ページ。
●15 以上は原則論であって、末期ガンの告知などの複雑な問題が他方にある。しかしそれらを考える上でも原則の確認は不可欠である。またじっさいにインフォームド・コンセントが普及しているアメリカでは「ディフェンス医療」などの新しい問題も生じており、ことはそれほどかんたんではない。このあたりのくわしい議論については、水野肇、前掲書。
●16 アラン・トゥレーヌ『ポスト社会主義』平田清明・清水耕一訳(新泉社一九八二年)。
●17 以下の議論をするにあたって次の論考を参照した。山口節郎「労働社会の危機と新しい社会運動」『思想』一九八五年一一月号。梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第6章「新しい社会運動──A・トゥレーヌの問題提示をうけて」。伊藤るり「〈新しい社会運動〉論の諸相と運動の現在」岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)。
●18 山口節郎、前掲論文二三ページ。
●19 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』丸山高司・丸山徳次・厚東洋輔・森田数実・馬場孚瑳江・脇圭平訳(未来社一九八七年)四一二ページ。
●20 この点については、金子郁容『ボランティア──もうひとつの情報社会』(岩波新書一九九二年)。この本の描く世界──「もうひとつの情報社会」──は本書の議論に具体的なイメージを与えてくれる。たとえば本書での「見識ある市民」と金子のいう「ボランティア」を比較してほしい。
●21 梶田孝道『テクノクラシーと社会運動──対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)第二章「受益圏・受苦圏と民主主義の問題──地域紛争としてみた国際空港問題」。
●22 前掲書五四ページ。
●23 前掲書五五ページ。
●24 鳥越皓之編『環境問題の社会理論──生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)五─七、一八─二〇、九六─九七ページ。なお、この本と一対をなす調査報告書として、鳥越皓之・嘉田由紀子編『水と人の環境史──琵琶湖報告書(増補版)』(御茶の水書房一九九一年)。
●25 鳥越皓之編『環境問題の社会理論』五七ページ。
●26 前掲書一六二ページ。
●27 原寿雄『新しいジャーナリストたちへ』(晩聲社一九九二年)一七九─一八〇ページ。
●28 欧米ではこれ以外に家族・友人・教会・地域コミュニティなどが有力なエージェントとして挙げられるが、現代日本の都市部住民の場合は学校とマス・メディアほど大きくないと推測される。地域紛争や市民運動の盛んな地域あるいは宗教教団や日々差別を受けている人びとについては、もちろんこのかぎりではない。政治的社会化の概念については、児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)二五─二七ページ。
●29 カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎(下)』篠原勝訳(早川書房一九九〇年)一七一ページ。
●30 原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)一五二ページ。
●31 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(上)』河上倫逸・フーブリヒト・平井俊彦訳(未来社一九八五年)二五ページ。
●32 P・L・バーガー『社会学への招待(改訂新装版)』水野節夫・村山研一訳(思索社一九八九年)三七─三八ページ。ただし一部修整した。
●33 新井直之「視聴者と共生するテレビへ」津田正夫(編)『テレビジャーナリズムの現在──市民との共生は可能か』(現代書館一九九一年)二五〇ページ。
●34 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。
●35 今田高俊『モダンの脱構築──産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)二一一ページ。
●36 エドガール・モラン『出来事と危機の社会学』浜名優美・福井和美訳(法政大学出版局一九九〇年)二一三ページ。
●37 ブレヒト「実験的演劇について」千田是也訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか――ブレヒト演劇論集』(白水社一九六二年)一二三ページ。
●38 ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論──パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一九一ページ。
●39 前掲訳書一九四ページ。
●40 W・リップマン『世論(上)』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)一一一ページ。
●41 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』岡田直之ほか訳(新曜社一九七五年)第十三章「社会学者として生きること/自己反省の社会学をめざして」(栗原彬訳)二一六ページ。
●42 グールドナー、前掲訳書二一六ページ。
●43 伊佐山芳朗『嫌煙権を考える』(岩波新書一九八三年)七四─七五ページほかを参照。
●44 前掲書六八ページ。
●45 モラン、前掲訳書二〇九ページ以下。
●46 前掲訳書三六六ページ。
●47 前掲訳書二一五ページ。
●48 佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー──モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社一九八四年)。吉岡忍『墜落の夏──日航123便事故全記録』(新潮文庫一九八六年)。
●49 佐藤郁哉『フィールドワーク──書を持って街へ出よう』(新曜社一九九二年)。
●50 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)三五八ページ。
●51 前掲訳書三六二ページ。
●52 前掲訳書三六二ページ。
●53 前掲訳書三六四ページ。
●54 前掲訳書三五八ページ。
●55 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)二四六ページ。
●56 前掲訳書二三七ページ。
●57 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』四〇〇ページ。
●58 A・W・グールドナー『社会学のために(上)──現代社会学の再生と批判』村井忠政訳(杉山書店一九八七年)一四六ページ。
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