野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第三章 知識過程論の視圏──社会はいかにして可能か(3)知識と社会形成
行為の反省的評価
言語の場合と同じように、役割現象の場合も、人間は熟練した能動的行為者である。かれらは、すでに既定条件として与えられた舞台装置の文脈のなかで、演じるべき台本をよく知っており、かかわるべき他者に対して自分が何者であるかをわきまえ、しかも型通りに役割にはまるのではなく、ほどほどに距離化しつつ個性的に演じることによって「社会的現実」という演劇的事実をそのつど新たに創造するのである。そのとき演技者は行為者であると同時に、状況を理解し、自分を理解する解釈者でもある。人間はまさにこれらの点において社会形成の主体なのだ。
近年注目された社会学理論はいずれもこのような行為論的人間観を強調してきた。エスノメソドロジーの「実践的理論家としての日常生活者」、シンボリック相互作用論の「熟達した創造的行為者としての主体」。●33これらを継承してアンソニー・ギデンスは「社会の(相応な能力の)成員とはいずれも実際の経験から学んだ社会の理論家であるがゆえにこそ、《社会の生産》は現実に可能となる」●34とし、社会生活とは、社会の働きについて多くの知識をもった行為者の能動的達成と考える。●35この知識のなかには、たとえば言語については語彙や文法規則についての知識、役割現象についてはさまざまな類型化図式がふくまれる。
行為者が有能な社会理論家であるというのは、たんに社会生活についての知識をもつからだけではない。それは「人間は活動状況にかんする知識をとおして行為を反省的に評価する(reflexively monitor)」から社会理論家なのだ。●36行為の流れのなかで行為者は自分の行為についてたえず反省的にモニターする。「モニター」とはもともと「監視する」とか「具合を観察する」といった意味だが、「反省的」がついているから「自己監視」とか「自己点検」の意味になる。それによって、きたるべき場面で行為を微調整したり、他者に自分の行為の理由を説明したりする。そして「行為の自省的評価が社会の制度的組織を誘発するとともに再構成する」●37このように反省作用はたんに認識に関わることがらであるのではない。社会形成の基本的なメカニズムでもあるのだ。
知識過程
ここで〈図〉と〈地〉を反転させて、反省的評価の基準となるとともにそれによって修正される知識の方を〈図〉にしてみると、知識は固定したものではなくて、たえず行為によって経験的に改訂されていることがわかる。知識は「行為の反省的評価」によってたえず修正される過程的な性質のものである。ジンメルは「知識事実」と呼んでいたけれども、じっさいには「知識過程」なのだ。
前節で説明した役割現象について、この知識の過程的性格を再確認してみよう。人びとは相手に対して類型化図式を当てはめて相手を役割の担い手としてひとまず捉える。それに対して自分自身にも適切と思われる役割をふりわけて自分の行為の方向性を見定める。この場合、役割は自己理解の媒体である。その知識は子どものときからの社会化によって獲得されたものである。ところがじっさいに役割行為は知識通りのものではない。相手の事実的行為によるさまざまな偶発的事態に対処しなければならない。行為者はその対処の行為を事後的に反省的評価し、役割についての知識を修正する。そして今度は修正された知識にそって新しい行為がなされる……。このように知識は行為者の反省的評価による絶えざる修正過程と見なすことができる。このプロセスは〈知識Aⓤ行為ⓤ反作用ⓤ反省的評価ⓤ知識A'ⓤ行為……〉といったぐあいに、らせん状に進展する。反省度が低いと、反作用が取り込まれないまま、知識Aのまま次の行為がくりかえされる。伝統的行為もしくは慣習的行為の場合や固定観念や偏見にもとづく行為がこれに当たる。相手の反作用のあり方も当然問題になる。とりわけ「予期しない結果」があきらかになったときは。「神は細部に宿る」ということばがあるが、このような微細なプロセスがじつはわたしたちの日常生活において無数にくりかえされており、そのくりかえしがさらに大きな社会形成のプロセスへと転回してゆく。このようにリフレクションとは知識の改訂作業なのである。
たとえば、ひところ議論になった「職場のお茶くみ」役割を例にとってみよう。それが職場で慣行になっているのは、そこで働く人びとの知識に共有されていた「女性役割」に即した行動だったからであろう。組織社会においては、その中核をなす男性社員(職員)「に対して」とくに女性社員(職員)の「女らしさ」が強調されてきたから、お茶くみのような仕事は重要な役割のひとつと見なされてきた。もちろん、この役割を自明視して、その役割をじっさいに行為することによって、役に立てたとの実感をえることもあろうし、ささやかな自己表現となることもあるだろう。しかし、たとえば総合職として同期入社したにもかかわらず女性だけがお茶くみを要求される不条理に気づくとき、それを異化し問題化させることも大いにありうることである。これが反省的評価の始まりである。しかし、その結果に基づいて実行に移すさいにはさまざまな困難が予想される。男性社員や同僚の女性たちについての知識──かれらがそれぞれどのような知識をもっているかも含めて──からその反応を予想するのはさほどむずかしいことではない。ここでお茶くみ役割の変更を思いとどまることは十分ありえる。この場合は役割距離の戦略をとることになる。しかし、思い通りにお茶くみを拒否すれば──拒絶にせよ説得にせよ──その知識は具体的な社会的相互作用にさまざまな反応を生みだす。その反応が反省的評価として取り込まれる。納得してもらうには対話が必要だとなれば、対話という次の新しい行為が生みだされるであろう。その結果、職場の人びとの常識的知識が改訂され、お茶くみ廃止の合意ができるかもしれない。
このように反省的評価による「知識の改訂」を媒介させながら具体的な社会的現実が修正されてゆくのである。一般的に、コミュニケーションによって社会化されるなかで知識は個人に蓄積され、それに基づいてさまざまな行為が産みだされるが、コミュニケーションにおける他者の具体的な反応を考量する反省的評価によって、行為者の知識はたえず修正されつづける。知識はコミュニケーションの結果であるとともにコミュニケーションを変え、コミュニケーションに変えられる。
話が抽象的にすぎたかもしれない。抽象的な議論はここでやめにして、今度は知識過程としての役割現象をひとつの有名な具体例に即して見ることにしよう。
スモン患者の役割変遷
ひとつの実例としてスモン事件の被害者のたどった役割の移り変わりについて見てみよう。スモン事件とは、整腸剤として広く使われていたキノホルム製剤によって、下半身の神経がマヒして歩けなくなり、目も見えなくなるという障害を服用者にもたらした事件である。被害者はこれらの障害とともに激痛に苦しめられたが、一時期ウィルス感染説が存在したためにさまざまな社会的差別にも苦しめられた。一九五五年あたりから始まり、一九六九年から翌年にかけて大きく社会問題化した。法的に認定された被害者だけでも一万人を超える世界最大の薬害事件である。
とはいっても、はじめから一連の事象が「薬害事件」として存在していたわけではない。むしろこの事件をきっかけに「薬害」という概念が日本社会に定着したのである。したがって、スモン事件が「薬害事件」として社会的に存在するのは、すべて〈事後的に見て〉のことである。おそらく被害者による有効な社会運動なしには少なくとも「薬害事件」としては社会的に存在しなかっただろう。わたしはここに人間の反省的な社会形成のひとつの理念型を見ることができると思う。
栗岡幹英はスモン被害者の手記を分析して、かれらがさまざまな役割をへて薬害告発者へと自己形成する過程を追っている。●38この研究にそって、スモン被害者の役割変遷過程をたどっていくことにしよう。
すべてはまず身体の不調から始まる。身体へと意識が収れんすることによって、それまでの健康な「社会人」という役割が「私秘的生活者」の役割にすりかわっていく。つまり「社会人」としてそれまでかかわっていたさまざまな他者が意識から遠のいてゆく。やがてスモン特有の激痛と身体の機能障害(下肢マヒと視力低下)の進行によって「スモン患者」の役割を受け入れざるをえなくなる。他の一般の患者役割と同じように「スモン患者」の役割も一時的なものと考えられ、他者への依存を受け入れるようになる。ところが、それが一時的なものでなく不治の病いであることがわかり、視力などの障害が一線をこえてしまった段階で、このような意味世界は崩壊する。一方ではウィルス感染説が報道されることによって、かれらは「感染症患者」の役割を押しつけられる。同時に、本人とその家族はともに社会からさまざまな差別を受けることになる。それは、他人に奇病をうつしてしまう存在として「加害者」役割を家族ともども背負わされたことによるのであるが、その結果として、かれらの多くはウィルス感染説の受け入れに拒否的にならざるをえなかった。それに対して、しばらくのちにでた「キノホルム説」は、かれらの体験によく合致するとともに「加害者」役割からの解放を意味したため、積極的に受け入れられることになる。こうしてかれらは「キノホルム被害者」の役割を選択的にとることになる。自分たち──この場合は家族もふくむ──が「被害者」となると、「加害者」はだれだということになり、かれらは被害者として加害者の存在を意識するようになる。まず医者が想定されるが、やがてその背後の製薬企業とそれを監督する立場にある国[厚生省]そして薬事制度全般へと遡及する。そこで、かれらは一方で「キノホルム被害者」という自己定義を正当なものとして他者の承認をえようと能動的=主体的に運動するとともに、他方で裁判の「原告」の役割をとることを通じて普遍的な性格をもつ「薬害告発者」へと自己形成していくのである。このさい目標となったのは、自分たち被害者への補償だけではなく、薬害そのものの根絶だった。これは、被害があまりに重いために、金銭的な保障が積極的な意味をもたないという側面もあったが、それまで他者に依存しつづけざるをえない存在だった自分たちが「二度と薬害を起こさせない」ために闘うことで、将来ありうるかもしれない薬害の被害者を未然に救うという高度に社会的な貢献をしたいとの気持ちが強く働いたためだった。●39
ごらんのように、スモン患者の自己形成は、キノホルム中毒という身体的な要因から始まるにしても、基本的に他者との交渉関係──コミュニケーション──のなかできわめて反省的におこなわれている。この場合、深刻な問題状況がかれらに高度のリフレクションを強いたのはたしかである。最終的に「薬害告発者」として裁判を中心とした主体的な社会運動──反省的行為──へ展開していったのはその結果である。
ここで注目しておきたいのは、この役割変遷がけっしてミクロな場面だけでおこなわれたわけでないということである。「スモン患者」の役割は医学者による認定の結果であるし──SMONと命名されたのは一九六四年の日本内科学会のシンポジウムにおいてである──「感染症患者」の役割はマス・メディアによる偏見の醸成の結果である。それらはいわばマクロな場面からかれらの生活史に介入した規定作用である。それに対してかれらは、あるときは受容し、あるときは抵抗する。とりわけ自らを「スモン被害者」として自覚したのちは、それを一般の人たちに認めさせるために、マクロな社会的場面に能動的に働きかけ、「加害者」にあたるものを分析し、さらに「薬害告発者」としてマクロな社会に修正を迫る実践を組織化した。
このプロセスを知識過程として見ると、さまざまな常識的知識の修正が生じている。●40被害者とその家族については、病気に対する知識・薬に対する知識・医者に対する知識が大きく変わった。「病気は必ず治るものだ」「薬は安全だ」「医者はすべてを知っているはずだ」といった常識の自明性が崩壊し、まったく逆の現実が存在することをかれらは知る。ある薬が患者に服用されるまでの複雑な社会的しくみについての知識、すなわち、自然科学的原理によって運営されているかのように信じていた医療現場がじつにさまざまな社会的利害によって左右されていること、その社会的背景に対する知識の深まり。あるいは自分自身の社会への貢献と依存に対する考え方の変化。受動的に受容するだけだったものから、能動的に選択し承認させるものへと転回する役割に対する知識。かれらのうちにあるさまざまな知識が、さまざまな他者とのコミュニケーションの過程で反省的に改訂されたのである。同時に、かれらによる社会運動の組織化と裁判によって、かれらは日本人全体の知識に薬害に対する知識を付け加えることになる。そして障害に対する知識を変え、責任をとるべき主体の不在を日本人に教えた。
この過程はたんなる学習ではない。もはや学習を超えている。というのも、修正される知識はたんに偏見とか固定観念といったものばかりではなく、社会の制度的枠組み自体が要求する知識や専門的知識でもあるからだ。それまでの常識の自明性が解体され、社会学的な反省を通して、新たな知識が形成され、専門家に偏していた知識の分布状態が大きく変わる。それは「知識事実としての社会」を変える実践なのである。
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