2022年1月17日月曜日

『リフレクション』第二章 行為論の視圏(2)脱物象化の知的可能性

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第2章 行為論の視圏──脱物象化と反省的行為(2)脱物象化の知的可能性

予言の自己成就

物象化の認識上の帰結は、社会現象の原因と結果をしばしば取りちがえてしまうことだ。つまり、一連の活動や意識や関係の〈結果〉として生じた現象を、逆に一連の現象の〈原因〉と錯視してしまうのだ。

社会現象にはしばしば「結果が原因となり、原因が結果となる」因果系列のメビウスの輪が生じる。これに関連するふたつの社会学的名言を紹介しよう。

まずエミール・デュルケムのことば。「われわれが犯罪を非難するのは、それが犯罪だからではない。われわれが非難するから、それは犯罪なのだ。」●10次にカール・マルクスが『資本論』の注の片隅に書いた一節。「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである。」●11

いずれも反省的で主体的な捉え方といえよう。つまり、「犯罪」とはわたしたちが非難した行為をいうのに、わたしたちは「犯罪」だから非難されるべきだと素朴に考えてしまっている。「犯罪」にするのは他でもないわたしたち自身であることをわたしたちは忘れている。また「権力者」は権力をもつから権力者なのではなく、人びとが自発的に服従するからこそ「権力者」なのである。そしてこの権力の〈秘密〉に、服従する人びとはなかなか気づかない。デュルケムは常識を偏見に満ちたものと考えていたが、わたしたちも同じように常識を物象化的錯視に満ちたものとひとまず考えておこう。社会学的反省は、物象化的錯視を徹底的に疑い、認識しているわたしたち自身の実践の産物として捉え返すことから始まる。

ところで、この物象化的錯視はそれ自体が社会の構成要素として作用し、少々やっかいな問題を社会にもたらす。この点について明晰に指摘したのは、アメリカの社会学者ロバート・K・マートンだった。かれは「自己成就する予言」(self-fulfilling prophecy)として、いわゆる「予言の自己成就」のメカニズムを明確に説明した。●12

マートンは著名な社会学者ウィリアム・I・トマスの「もしひとが状況を真実(リアル)であると決めれば、その状況は結果においても真実(リアル)である」という記述に着目し、これを「トマスの定理」と呼んだ。そしてそれを展開する形で「予言の自己成就」について論じた。●13

たとえば「地価は必ず上がる」と人びとが信じると、結果的に土地は上がる。「株は必ずもうかる」と人びとが信じているかぎり、株価は上がり続ける。人びとが信じるのをやめたとき、それは客観的に事実ではなくなる。「あの信用金庫は危ない」という事実無根のうわさを町の人びとが信じて一斉に預金を降ろしてしまったら、ほんとうにその信用金庫は倒産の危機に直面してしまう。さきほど問題点を指摘した「障害者の不幸」も同じメカニズムである。

あるいはこういうのはどうだろう。ひと通りの「常識」を身につけた白人のアメリカ人が、他人の行動を評価する場合。「リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切りくずし、不公正なやり方で競争している証左だとされるだけである。」●14

また、レイベリング理論の示唆するところによると、人びとが前科のある者を「ふたたび犯罪を犯す可能性の高い危険な人物」と見なすことによって、服役終了後に社会復帰しようとする者の再就職の道が閉ざされ、じっさいの生活が追い詰められることによって、結果的に犯罪を犯してしまう。逆の例だと、ある政治家が「陰の実力者」であるとの評判が広まることによって、さまざまな人がその人物を頼りにし、実力者として遇することによって、その人物はますます政治的な実力者となってゆく。

このプロセスは受験界でもしばしば観察される。ある学校の偏差値が上がると、翌年の受験生はそれを知っているから、高い偏差値の受験生が志望するようになる。それによってその学校の偏差値はますます上がる。

「予言の自己成就」とはこういうことだ。人びとが自分たちの共有している知識に基づいて行為することによって、その知識が現実のものとなって自己成就する。このようなしばしば悲劇的な循環運動こそ、自然現象とは根本的に異なる「社会」現象特有のものである。この循環運動を悲劇的なものにしないためには、個々の社会現象に対するわたしたちの認識を反省的なものにしていくことが必要だ。わたしたちの常識のなかに潜む物象化傾向を排除していく知的努力が必要なのだ。それゆえ社会学は「自明化された常識を疑う」ことから始める。「脱常識」が要請されるのである。●15

問題状況と脱物象化

「こうであって、ああでないのはなぜなのか?」「世界は、われわれに見えているのとはちがうかもしれない」という疑いをもつことから覚醒した反省的認識は始まる。では、どういうときに反省的認識は生じるのだろうか。あるいは、物象化的錯視から逃れる方法はあるのだろうか。

ピーター・L・バーガーとスタンリー・プルバーグは「脱物象化」の一般例として三つの場合をあげている。●16

(1)自明視されていた世界の崩壊を必然的に伴う社会構造の全面的崩壊。

(2)文化接触によるカルチャー・ショック。

(3)社会的にマージナルな位置にある個人や集団。

わたしたちの文脈でいえば、この三ケースは反省的認識が生じやすいチャンス(機会もしくは可能性)を意味する。これらがきっかけとなって脱物象化としてのリフレクションが生じる。もう少し説明を加えよう。

まず第一に、社会構造が全面的に崩壊して、それまで「あたりまえだ」とされていたことが「あたりまえ」でなくなってしまう場合。たとえば半世紀前に太平洋戦争が終結したとき日本人が共通に経験したことが、まさにこれだった。戦争や革命、急速な技術革新や都市化、経済恐慌、インフレーションなど、既成の日常生活を支えていた安定した社会構造が何らかの理由によって不安定化してしまったとき、わたしたちは生きるために根本から考え直す。それは切実な生存欲求に基づいた実践的な反省である。

第二に、文化接触によるカルチャー・ショックの場合。江戸時代末期から明治時代初期の「文明開化」のケースのように、閉鎖的な自国文化が他国の異質な文化を受け入れるとき、さまざまな驚きが体験される。あるいは外国を旅行する人は、当地ではごくあたりまえの日常的なことがらにいちいちショックを受けるものだ。この驚きやショックは異文化に対する違和感や拒絶からはじまるが、やがてその異文化を理解でき受容できるようになると、今度は異文化の視点から自分たちの文化に対して距離をとって見ることができるようになる。「他者の視点から自分を見る」──つまり反省である。

第三に、マージナルな位置にある個人や集団の場合。社会学においては「マージナル・マン」(marginal man)とか「マイノリティ・グループ」(minority group)と呼ばれる。「マージナル」とは「周辺的」「周縁的」「境界上の」のこと。「中心」に対して「周辺」「周縁」である。あるいは複数の集団の「あいだ」に位置することをいう。たとえば、序論で論じたような企業社会のあり方の問題性に最初に気づくのは、男子正社員の中核社員ではない。むしろ新人・パートタイマー・女性・外国人・障害者・フリーランス・派遣社員の方だ。家族の性別役割分担の非合理性に問題を感じるのは、働く妻である。社会制度が一見公平に見えてじつは差別的な構造をもっていることを感じるのは、差別されている側の人びとである。

このように習慣的パターンが正常に生じないときや予期しない反応に直面したとき、あるいは不本意な待遇を受けたとき、つまり「問題状況」(問題をはらんだ事態)において人びとはそれまでの物象化された目で見ることをやめ、反省的な知性を作動させることによって脱物象化をおこなうのである。自明性が失われた非日常的な問題状況においてリフレクションが活性化するのは、一種の異化効果が生じるからだ。「異化」(Verfremdung) とは「まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすこと」である。多くの人びとにとっての既定の事実が、疑わしいものに見えるようにすることだ。●17対義語は「同化」である。

一般に、問題状況がリフレクションを活性化させる。問題状況が反省的な感受性もしくは感受能力を生むのだ。その意味でリフレクション──わたしはこれを「社会学的な感受性」と呼びたいのだが──も社会状況の関数のようなものなのである。

社会の複合性

異化効果をもつ非日常的な問題状況をのぞくと、自明性の深部に存在する物象化現象は露出しにくい。おそらくそれは日常生活者の知的怠慢のせいではあるまい。社会のありようがそうさせていると、ひとまず考えることができる。というのは、現代社会においては相互依存性がますます増大しているために、多少の異化効果が生じても、かんたんには構造が見えにくいからである。当然、錯覚することも多いし、ステレオタイプやクリーシェのイデオロギー的役割も大きくなる。

たとえば、社会問題の現象の仕方にそれは鮮明にあらわれる。梶田孝道は一九七〇年代なかごろの自動車排出ガス問題を事例にして、明晰にこの点を分析している。

梶田によると、現代の社会問題は、ひとつの特殊な領域だけではもはや処理できないほど、さまざまな領域と複雑に連鎖している。たとえば自動車排出ガス規制問題は、たんに公害問題であるだけでなく、自動車産業問題であり、道路建設問題であり、運輸問題であり、エネルギー問題でもある。関係する主体も、自動車産業・関連業界・道路建設者・通産省・ユーザー・歩行者・道路周辺住民など、じつに広範囲にわたる。これらが「加害者」「被害者」にふりわけられるわけだが、人びとはあるときは歩行者として被害者であるが、あるときにはユーザーとして加害者である、というように、すべての人びとが被害者であると同時に加害者でありうる(相互共犯性)。しかも加害はしばしば迂回的にあらわれる。たとえば、みんながクルマに乗るから道路が込み、そのためバスなどの公共交通手段のサービスが低下し(いつ来るかわからない朝のバス)、その結果、マイカーが増加する……といったように。このような場合、問題が深刻であっても、被害を集中的に被っている人びとがいないので運動が形成されにくく(つまり声を上げる人がいない)しかも加害者が拡散しているため焦点も定まりにくい(敵をしぼれない)。●18

社会全体が相互依存性を高めているとは、こういうことである。その社会的現実をつくりだしているのは、たしかにわたしたち自身の日々の活動であるにもかかわらず、わたしたちはそれを自分たちのものと認識できず、したがって、それとは別の現実をつくりだせるという可能性に気がつかないでいる。

その意味では、今どきのリフレクションは手間ひまのかかることになっている。「反省」ということばで一般に思われているような単純な心理的過程ではすまないのだ。それは多くの科学的な認識装置を準備してはじめて可能になるようなことなのだ。それを現代人は覚悟しなければならない。社会学が、自己反省の回路が閉ざされ物象化された意識をひらく知的営為として、つまり〈社会学的反省〉を促進する〈明識の科学〉として存在意義をもつのは、こういう理由からである。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。