野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第五章 着地の戦略──苗床集団における情報主体の構築
¶一 状況に埋め込まれた学習
■情報主体の構築問題へ
もしインフォアーツの育つ場所というものがあるのであれば、どこで・いかにしてその「レッスン」は、おこなわれうるのだろうか。インフォアーツ的な情報主体の構築はいかにして可能なのか。ちなみに、この場合の情報主体とは、あくまでも人間のことであって、マシンや情報システムはすべて情報環境に属すると考えるべきだろう。
インフォアーツ的な情報主体の構築の問題について、私はおおよそ次のように考えている。
インフォアーツは実践的な資質であるがゆえに、正統的周辺参加によってのみ、よく学習されていく。市民主義的コミュニティがネット上で有力だったころは、それがネット上でなされた。しかし、それらが孤島化した現在では、ネットからの「着地」を構想しなければならないだろう。つまり、フェイス・トゥ・フェイスの人間関係を中心とする中間集団が苗床の役割をすることだ。これを「苗床(なえどこ)集団」と呼ぶことにしたい。
インフォアーツの苗床集団の原型は、情報教育、それも拡張された意味での情報教育である。学校や大学だけが舞台ではない。生協やNPOやボランティア組織など、さまざまな舞台が考えられる。インフォアーツは不断の学習過程になる点では、生涯学習の概念に加えていいだろう。それが獲得される場所は、とくに年齢を問わない。
このような着地を構想するならば、いわゆる「リアル−ヴァーチャル」の二元論はあまり意味をなさなくなる。というか、その呪縛から自由になるべきだ。考える土俵としては不適切で、むしろ「主体−環境」と分けて戦略を構想するべきだと思う。演劇モデルでたとえると、情報主体がアクターで、情報環境がシアターである。情報環境については次章で検討しよう。本章では情報主体の構築について考える。
■正統的周辺参加
さて、「正統的周辺参加」ということばは聞きなれないことばかもしれない。これは認知科学の研究者であるレイブとウェンガーの共著『状況に埋め込まれた学習』(佐伯胖訳、産業図書、一九九三年)で提案された概念である。
ふつう私たちが学習ということばで連想するのは、あらかじめ定まった知識を教師が生徒に教授するというものであるが、レイブらはそれをまったく逆の事態と考える。学習とは、実践的な状況に埋め込まれているものであり、なんらかの共同作業に新参者が参加するときに、具体的な実践活動とともになされることであるという。たとえば古典的な徒弟制では、新入りはいきなり親方や兄弟子たちの仕事に加えられる。それは実践共同体(仕事仲間)への「正統な」参加であり、仕事全体に影響の少ない「周辺的な」参加である。この、責任は小さいがあくまでも正式の仕事をすることによって、新入りはそれに必要な知識を学習するのである。教える行為がなくても新入りは自ら学習するのであって、学習させられるのではない。また、学習される知識は、その実践共同体そのものに宿っているのであって、親方のような特定の個人の頭の中にストックされているのではない。
この学習理論から考えていくと、インフォアーツも、本質的には、何かパッケージされた知識や技術として教室内で教授されるものではないだろう。ひとつ言えるのは、何らかの実践共同体がなければインフォアーツは学習されないということだ。問題は、それが何かということである。
■インターネット・コミュニティ
まず考えられるのはネット自体がその役割を果たす可能性である。ネット上では多様な人びとと接触する機会が非常に多い。とくに市民主義的なコミュニティでは、ネット上で議論が進む中で、新入りの参加者は、相槌を打ったり、かんたんな情報提供をしたりといった周辺的な参加から、そこで必要なルールや作法や議論のテーマについての基礎知識を身につけていく(第一章二参照)。
とくに市民主義的というわけでない「ことばの市場経済」(たとえば各種の匿名掲示板)の場合でも、頻発するトラブルに対する解法として、それなりのルールを決め、それなりの作法というものを要求する動きが出てくるものである。そうした中で参加者の学習が進むものだ。それが適切に機能すればいいのだが、話はそうかんたんにはいかない。
出会い系サイトにせよ、趣味のメーリングリストにせよ、掲示板にせよ、ウェブ公開にせよ、個人は必ず他者とのコミュニケーションをすることになる。日常世界では慣れない他者とのコミュニケーションを(子どもたちでさえ)ひとりの個人として遂行する。それは「個人化」のプロセスにとって一定の効果を生むはずだ。多くの大人たちが経験しているように、ネットワークにはまればはまるだけ鍛えられる。
しかし、現状ではその鍛えられる内容が「市民化」の方向(つまりインフォアーツ)ではなく、ダークサイドに向かってしまっている。たしかに「ネットずれ」した人たちはいる。しかし、ほっておくと、ローカルなジャーゴンや言い回しをはじめとして、恫喝や茶化しなどの姑息なコミュニケーション技術ばかりを学び取り、その場その場の「勝者」側に立つことばかりを志向するようになる。どうしてそうなるのかは分析が必要だが、とくに若い人たちがネット上で集まる場所がだいたい決まっていることに由来するのだと思う。もったいないことだ。もちろん、そういう傾向についてゆけない人も多いようだが、だからと言って積極的に居場所を探そうとはしないし、そもそもどうしていいかわからないのが実態のようだ。
とくに日本語圏の場合、北米やヨーロッパのように、ある程度成熟した市民文化が前提できない。ネットで鍛えられたネットワーク市民もたくさんいるが、今となっては「先住民」あるいは「少数派」になってしまった。このようなネット文化をキャリアの浅い世代(年齢ではなくネット経験年数の少ない人たち)に継承していくためには、ネットだけでは限界があって、大なり小なり対面的な関係が必要である。
社会学の知見が示すように、人間は個人である前に集団成員である。人は自分の準拠集団にそって自分の考えを定め、行動をとる。準拠集団は必ずしも所属集団であるとはかぎらないし「想像の共同体」であってもかまわないのだが、それでもやはり第一次的関係である直接的な人間関係「パーソナル・インフルエンス」は強力なのである。私たちは、ネットのありようを考えるとき、ネットの特殊性ばかり追おうとして、この基本的な事実を忘れているように思う。その意味では、インフォテックを利用して対面しないままに教育しようとする、昨今ブームの遠隔教育やEラーニングは、この点で大いなるカンちがいをしていることを指摘しておきたい。ここでも「インフォテックの教育」はことごとく逆向きである(助成金の方を向いている?)。
¶二 苗床としての中間集団
■苗床集団での育成
私が「苗床集団」と呼ぶのは、正統的周辺参加を内包した実践的状況を用意できる集団のことである。
そもそも「苗床」(なえどこ)のイメージは、二段階の成長過程を前提している。つまり、いきなり種を田んぼに植えても稲は育たない。まず、よくコントロールされた環境で、ある程度まで育てたのちに、自然な外界の田んぼに植え替えるやり方が効果的だということだ。
ネット上の社会化についても、同様のことが言える。いきなり何でもありのネットにでていくのはリスクの多いことである。ウェブに話を限定したとしても、ナヴィゲート構造は複数の恣意的な構築物である。たまたまアクセスしたところが「吹き溜まり」のようなところだと、初心者はあっという間にそこでの流儀に染まってしまい、その周辺のサブカルチャーにとどまってしまう。こういうケースのなんと多いことか。
それゆえ、現在においては、インフォアーツを具体的に構築し発展させるための重要な戦略は「苗床集団での育成」である。つまり、自分のインフォアーツを「育成」したいのであれば、自分がのびのびと活動できる安心な苗床集団をみつけることだ。そこを苗床にして根を張り枝を伸ばせばよい。
■情報教育という場所
このような視角で情報教育という場所を見直してみると、それもあながち捨てたものでないことがわかる。情報教育においてインフォテックが勝っている現状は、情報処理の技術的専門家が動員されてきたことに由来するわけだが、しかし、それをじっさいに担う教員の運用の仕方しだいでは、それなりに意味のあるものにしていくこともできるのではないか。本書では現状を批判してきたが「もともと情報教育とは、そんなもの」と決めつけて撤退する必要はない。
インフォアーツ的な資質を育成するつもりがあるのであれば、ネットワーク社会にとって学校や大学がもつ稀少性に注目して情報教育を組み立てることを考えればよいのである。では、学校や大学がもつ稀少性とは何か。
私は、学校や大学がインフォアーツの「苗床集団」の役割を担いうる典型的な既存組織であることに注目したい。ネットワーク社会の将来を構想するとき、学校にはネットワーク市民の苗床集団として大きな可能性があると思う。それはこういうことだ。
情報教育は、通常、教室で行われる。規模の大小はあっても、それはフェイス・トゥ・フェイスの対面集団である。つまり、そこでは、いわゆる「リアル」と「ヴァーチャル」が同じ場所で作動しているのである。インターネットというと、あくまでも「ヴァーチャル」ということになっているけれども、モニタのこちら側では、教室という空間において学生たちや教員が「ああでもない、こうでもない」と相互作用している。この光景を日常的に見ていると「リアル対ヴァーチャル」二元論というのも、それほど絶対的なものとか固定的なものとは思えなくなる。私たちは、あまりにこの図式に毒されていないだろうか。
学生たちがインフォアーツのないままインターネットの大海にでる。もしそのそばに「情報通」の先輩や教員がモニタのこちら側にいれば、リスクの大きな回り道を多少なりとも減らすことができるだろう。ネット上でどのようにふるまうのが適切かを討論して、自分なりに納得のいくやり方を見つけることもできる。情報の信頼性の吟味やその見極め方を教えあうこともできる。そして、何よりも、ネットで生じている出来事や言説に対して、共同で批判的に対応することができる。裸の個人ではなかなか批判的なスタンスをもつことはむずかしいが、こちらに信頼できる共同関係があれば、それも困難ではない。
要するに、注目すべきなのは、パソコンの中やネットワークの向こう側で生じていることではなく、端末のこちら側の人間模様なのである。
なぜなら、外部に対して働きかけるときこそ、内部においてコミュニケーションが作動し、アドホックな対話的コミュニティが現出するものだからである。ネットワーク活用の場面において、そうしたコミュニティを教室の中にいかにしてつくるかがポイントである。コミュニティの中でこそ学生はやる気を出し、自分で方向性を見いだし、自発的に活動を始める。「状況に埋め込まれた学習」である。言うまでもなく、学生は、情報をインプットすれば機械的に受容するような存在ではない。苗床集団となる対面集団があって、それをきちんと調整すれば、主体的な学びをしていくものだ。
■ネットの着地
無数のコミュニケーションの錯綜するネットワーク社会において、自律的に発言し行動できる個人をどのように支援し育てるか、そしてその苗床となる中間集団の力をどう紡いでいくか。
言うまでもなく、教育の現場は直接的な対面集団の場である。空間的に近接している個人がじっさいに対面してコミュニケーションの調整をすることが容易だ。この利点はネット上の関係には望めないもので、とくに若い人たちの学習には適しているはずである。その点で、教育機関内に形成されたコミュニティは、インフォアーツにとって非常に強力な苗床集団になりうる。
私がこれまで、情報教育をひとつのアリーナとして問題を設定し、そこでインフォテックに対してインフォアーツを対抗的に構想してきたのは、これから始まる本格的な情報教育が非常に重要な分岐点になるだろうとの歴史認識があるからだった。しかし、情報教育が考えるに値する要衝であり転回軸であるとする理由は、以上に述べた点において、情報教育がネットを根本的に見直す要素をもっているからなのだ。それを一言で括れば「ネットの着地」である。二〇〇三年からの高校情報科を重要な節目とみなすのも、「インフォテックの教育」が始まるかもしれない危険がある一方で、「着地」の可能性をもつからである。
■拡張された情報教育
さらに確認しておきたいのは、いわゆる狭義の情報教育だけが苗床になるわけではないことだ。むしろコンピュータやインターネットを主題としない他の普通の授業や講義や演習こそ、インフォアーツ構築には好都合である。いわゆる情報担当ではない教員が、インフォアーツを自分のものとして、それぞれの主題や形態の授業などにネットを組み込んでいくことが苗床としては大きな可能性をもちうる。インフォアーツの学習は、原則的にあらゆるところで可能である。たとえば大学であれば、このような情報教育は、サークル活動を含めて、大学教育の全分野に及ぶのだ。特定の科目において達成されるものではない。こういうことは、教員の意欲と知恵さえあれば、むしろローテクで十分である。ゼミや授業単位でメーリングリストひとつあるだけでも、使い方しだいでは、かなりのことができるはずである。
たとえば大学の学部ゼミで共同でウェブ公開をするとする。学生はウェブ管理という共同作業に参加することによって、その一人前の成員として作業に携わるのに必要な知識を身につけていく。その共同作業が学術的に意味のあることであれば、ウェブの構築と管理はそのまま学習行為になるはずである。この作業の中で、ゼミがゼミとして外部を意識することで、ゼミそのものもまとまりのある集団に形成されるとしたら、大学としてはまっとうなことだろう。苗床集団でこうした「レッスン」ができれば、外部のネットにでても、それなりに賢明に動くことができるだろうし、トラブルに遭遇したときに適切なアドバイスをえることもできるだろう。このような苗床集団が幾重にも学内につくられていくのが理想的である。
■苗床集団としての生協運動
ひとたび苗床集団へ着目すると、今度は学校や大学だけがインフォアーツの育成場所ではないという考えにいたる。インフォアーツ形成の苗床集団は日常のいたるところに存在している。生協、労組、ユニオン、NGO、NPO、同好会、市民サークル、PTA、老人会、同窓会、町おこし、市民運動。条件は対面関係があること、権威と活動理念がしっかりしていることである。これなら「着地」可能である。
学校を含めて、これらの集団や組織は概してネット化が遅れていた。なぜかというと、さしあたり必要がなかったからである。対面的なコミュニケーションが日常的におこなわれており、各自のなすべきことも明確だったからだ。しかし、これらの集団や組織がネットを活用するようになれば、とかく閉塞しがちな活動領域が格段に広がり、影響力を大きくすることができる。
こうした集団や組織の中では、ネット化への適応についても、たえず対面的なコミュニケーションによっておこなわれていく可能性が高い。所属する人たちの環境づくりに留意すれば、インフォアーツの有力な苗床集団になりうるだろう。
一例として、生協運動の場合を考えてみよう。
パソコン通信時代から個人としてはかなり活発な活動があったものの、そしてインターネット先住民文化が生協運動と親和性の高いものだったにもかかわらず、最も生活に密着した地道な市民主義活動とも言える生協組織が全体としてインターネットに冷淡だったことはそれなりの理由があるのだろう。地域密着の生協が、グローバルレベルに拡散しうるインターネットとどう折り合うかの見当がつかないこともあっただろうし、購買活動において重要な決済の問題が残ったこと、つまり初期においてインターネットの最大の弱点である、信頼性の高い決済システムを持たなかったことも響いているのだろう。これは労働運動においても同じことが言えるのだが、上部組織のネットに対する認識の甘さも大きく響いている。
しかし、その生協も新世紀になって、インターネットによる注文やコミュニティ活動の土台となるネットワークの「共通基盤」が普及しつつある。これを採用する生協は今後相当数に及ぶと思われる。ひとつの生協でも、グループ活動をしている数百・数千の対面集団を抱えているという。これは驚異的なことである。この人たちのシティズンシップは高いが、ネットへの関与は低かった。生協としてインフラを整備し、インフォアーツの各資質をまずは生協を舞台にして学習できるようにするだけでも、ネット全体の雰囲気が変わるだろう。
脆弱な市民発信を促進し、社会において欠落しがちな情報を積極的に提供し、市民的ネットワーキングを支援することは、生協運動発展の視点から見ても当然であるし、そこでのコミュニケーションを自浄作用につなげることもできるだろう。たんにIT政策に乗るのではなく、インフォアーツ形成の環境づくりに貢献するとの目的意識を明確にした上で積極支援をしてほしいと思う。
¶三 着地の思想
■出会うこと
「ネットのことはネットにきけ」と言われてきた。基本的にはそのとおりだと思う。かつてインターネットにはシティズンシップを経験するミクロな状況があちこちに埋め込まれていた。それゆえネットはシティズンシップをレッスンし、メディア・リテラシーをトレーニングする場所であり得た。けれども、学ぶべきネットの文化がじつに多様なものになってしまった現在、ネットから適切に学ぶことは中級者でもむずかしい課題になっている。それゆえ、インフォアーツを育てるには「ネットにきけ」では不可能になっている。対面的なコミュニケーションによるサポートが必要だ。
というわけで、モニタの「こちら側」としての苗床集団がインフォアーツにとって重要なのである。かつてパソコン通信で盛んに行われたオフ会の思想を反転させたようなものだが、社会学的には「ネットにおける中間集団の再発見」と言いたいところだ。
ネットと生活世界を媒介する力がインフォアーツの核になる。要するに、地に足のついたネット文化の構築が望ましい。「着地」がキーワードだと私は思う。
この着地は、学校や生協や職場といった社会的文脈での「出会い」を前提している。私たちは、こういう場所で他者と出会い、日常的にコミュニケーションを深めている。こういう人間関係を基盤にして、出会いを広げていくのがリスクのないやり方だろう。
そのまったく逆を行くのが出会い系サイトである。なぜかインフォアーツのない初心者(いつまでも初心者の人)ほど、こういうものに弱いのはなぜだろう。今ではケータイ経由が多いのだろうが、若い人たちが、わずかな警戒心だけで、目的のない出会いをしている。いや、目的はないわけではないのだろうが、ネットでの新しい出会いが豊かさと幸福をもたらす相乗的なものであるようなものになるには、相互に高度なインフォアーツが必要である。出会い系にはまる人たちが、はまったまま、なかなか抜けられないのは、要するに着地に失敗しているのである。成功していれば、その必要がなくなるのであろうから。
私に言わせれば、要するに順序が逆なのである。すでに出会っている人たちが相互に学習しあいながら習熟したのちに、ネット上の輪を広げていくのがスジというものだろう。そして、ネット上にしかるべき文脈を構築して、その中で新しい人たちと出会っていけばいい。やはり文脈構築がたいせつであって、行き当たりばったりはリスキーなだけである。
■「リアル対ヴァーチャル」二元論をやめよう
「着地」という言い方は、暫定的なものである。それはあくまでも「リアル対ヴァーチャル」という二元論(二世界論)を前提とした言い方だ。それは、ネットの世界をヴァーチャルと定義して、リアルな生活世界と分離して理解する仕方である。
着地論に関連して、ここで、「リアル対ヴァーチャル」二元論の中止を提案しておきたい。
私たちが掲示板やウェブについて論じるとき、知らず知らずのうちに、この二元論に立ってしまっている。そして、いつのまにか「ヴァーチャルな世界」を自己完結した世界と見なして議論してしまう。それはテレビドラマを現実の世界とみなして没入する態度と同型だ。
これは、ネット時代の冷戦思想(想像上の二元論!)である。これが、ネット上の出来事を理解するうえでの障害になっており、一種の思考停止に陥らせているのではないか。そろそろ多用するのはやめたほうがいいと思う。
たとえばオンライン書店は書架に関してヴァーチャルな情報空間である。しかし、じっさいにそれが機能するためにはとてつもなく大きな倉庫や流通センターが必要なのである。情報がいくらあっても在庫がなければ、精巧なデータベースも意欲的な情報発信も徒労に終わる。情報空間は自足しない。
だからネット上でのやりとりが特別なコミュニケーションであるというのは過大評価である。たしかに、ネット上のコミュニケーションは、手がかりが希薄であり、ノンヴァーバル・コミュニケーションのもつリアリティが欠けている。そして速度と量は桁違いである。しかし、それだけで自足しない。
冷静に考えれば、新しいメディアとしてのネットは、コミュニケーションの分断線の基準を切り替えているだけだ。つまり、送り手と受け手の範囲を流動的なものに一新したことが新しいのである。だからネットを「ヴァーチャルな新世界」として見るのではなく、ネットが新たにコミュニケーションの分断線を切り替えた効果が新鮮に感じているだけと理解した方が、現実認識として正しいのではないだろうか。
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