野村一夫『ゼミ入門』文化書房博文社、2014年。
(3)導入編
■ゼミで一人前の大学生になる
基礎編では、テーマが特定されていない初年次のゼミについて考えることにする。この場合は「学びの方法を実践的に学ぶ」ことが目標になる。
これから述べることに対して「ものたりない」とか「もっとアカデミックにやりたい」という人(あるいは指導される先生)には次の2冊を先に薦めておく。
松野弘『大学生のための知的勉強術』 (講談社現代新書、2010年)
橋本努『学問の技法』(ちくま新書、2013年)
他にもいくつかあるが、上記2冊はとりわけ良書であり、主張にぶれがない。松野弘さんの本はかなり高度であり、私自身は自己否定になるので賛同はしないし、こういう学生とはお付き合いがない。橋本努さんの本は中くらいのレベルであり、意欲的な学生にはお勧めである。ただし、どんな大学生もこの通りにできれば完璧ではあるけれども、しかし現実的には一部のエリート学生のためのものである。何を称して「エリート学生」と呼ぶのかは、客観的にはかなり微妙であるが、ここでは主観的に「エリート学生」としての自覚のある学生のことをさすことにしたい。たとえば大学院に進んで研究者になろうという人や、いわゆるグローバル人材として世界に羽ばたこうともくろんでいる人は、最初からこの2冊のアドバイスにそって自分の勉強を進めてほしい。そういう皆さんとは「ここでさよなら」である。グッドラック!
というわけで本書では、このような学問研究直結の勉強法をアドバイスする方針はとらない。一定の教養ある市民になるための学びに照準を定め、一般学生として最低限のスタートラインを強調提示することに徹するつもりである。かといって、けっして幼稚な大学生になってしまうことがないように、また「失敗」のないように、最初に押さえるべきポイントを指摘しておきたい。
■オリジナリティについての考え方
まず総論としてオリジナリティについて説明しておきたい。これをどうとらえるかによって、勉強の仕方も違ってくるからだ。 結論から先に言うと「まず型を学ぶ、いきなりオリジナリティをめざさない」である。おそらく、この結論に反対する先生も多いと思う。しかし、最初からオリジナリティのあるものを作り出すのは無理というものである。しかも完璧なものを求められるから、多くの大学生がコピペに走ってしまうのだ。次善の策として、ちゃんとした考え方を立てる必要がある。これを、とりあえず「一里塚方式」と呼んでおこう。すなわち、勉強はステップ・バイ・ステップで進めるしかない。たいていの場合「ワープ」はない。はしごを登るように一段一段進めることだ。
この前提に立って考えると、学部1年次にまず習得するべきことは「編集」である。機械的に言えば「インプットした情報をデザインしなおしてアウトプットする」ということになるが、じっさいに学問に直結した領域では、それほど機械的なものにはならない。機械的に処理できないから「編集」は知的な活動なのである。
まず、信頼できそうな資料を集める。それらを全部読む。論点を把握する。その上で使える部分をピックアップしていく。それらを整理できるようなアウトラインを考える。今度はアウトラインに沿って情報の配置を決める。要約か引用によって文章化していく。文章化の過程で自分なりの理解も進むので、それに合わせてアウトラインを何度も見直す。文章化しないと「自分なりの理解」も把握できない。そして発表の形式(口頭報告かレポートか)に合わせてアレンジする。 編集とは、ざっと以上の作業である。細かい注意点などはあとで述べることにして、学部1年次だと、まずここまできちんとこなすことが「一里塚」つまり当面の目標である。 これらのことは、あくまでも「教育上の配慮」であって、学問の世界では通用しないことを肝に銘ずるべきである。大学院生や若手研究者が、学部生時代に「教育上の配慮」で許されてきたことを無自覚に学問の世界でやってしまうと、とんでもないことになる。しかし、本質的には次のようなことが言えるのだ。
■学問は集合知である
およそ天才が一から作り上げる学問ということがあるのだろうか。あるにはあるかもしれない。「サイバーパンク」「サイバースペース」などの言葉のもとになったウィーナーの「サイバネティクス」や、情報の「量」をビットという単位で数学化したシャノンの「情報理論」のようなものはある。これらはブレイクスルーとも言うべき業績で、かれらが天才であることはまちがいないが、それでも数学的な基礎付けの方法などは無数の研究の上に成り立っているのである。 既成知識に対する反発もふくめて、先行研究があって偉大な業績が生まれるのであり、あるいは後続研究があってこそその業績は「先行研究」として評価されるのである。
さらに根っこの話をしよう。
文化の基本は「模倣」である。およそ文化というものは、そういうもので、文学の世界では「ミメーシス」と呼ばれ、音楽の世界では「パロディ」「リスペクト」などと呼ばれ、美術の世界では「オマージュ」と呼ばれ、映画の世界では「引用」と呼ばれ、コミックの世界では「2次創作」もしくは「n次創作」と呼ばれる。模倣することは必ずしも悪いことではない。どう模倣するかによって評価は異なる。
言い方を換えると、オリジナリティは「巨人の肩の上で」のみ可能なのであって、それが「文化の継承」に連なっていく。おそらく先生も学生もじっさいにすることは「文化の継承」なのである。そのような「再創造」の中にわずかな(ほんとにわずかな)「創造」の芽が宿っていると考えた方がよい。 学問は、ひたすら進歩しているというより「たえまない変奏」を繰り返しながら変態(メタモルフォーゼ)していくと考えた方がよい。それゆえに古びた古典が光彩を放つときがあるし(そういうときは○○ルネサンスと呼ばれる)当時理解されなかった理論がようやく最近になって理解されるようになって現役の理論として論じられることもあるのだ。
私たちが学問の扉を開けるとき、それはこのような集合知に参加することになると考えてほしい。たとえそれが「模倣」であったとしても、その「模倣」によって集合知は維持補完されるのである。
そう考えていくと、アカデミズムの基本中の基本として最低限、次の2点を意識することが重要であることがわかる。
(1)情報源の明示
(2)本文と参照文献の区別
常識的なことについては無用だが、自分にとって新鮮だった事柄については、その情報源を明示しておくことが望ましい。初級者はそのくらいでよい。 「本文」というのは「私」が書いている部分である。それ以外は必ず「参照文献」が情報源になるはずである。それをしっかりと区別することである。やり方には「引用」と「要約」がある。丸写しにするところは「引用」としてかっこに括って明示する。これをひとつやっておくと、どんより混濁した意識が鮮明になるはずである。「私」が述べている箇所と、参照文献の「著者」が述べている箇所の区別の意識が立ち上がってくるからだ。そうなると「要約」のほうも、「○○によると、問題点は次のようなところにあるという。すなわち・・・」というスタイルになる。こればかりになると文体上の変化が乏しくなるが、そこは辛抱である。多少、平板な記述になるのはやむを得ない。区別するのが優先である。 「司会者になる」と考えればいいんじゃないか。司会者は基本的には自分の意見を述べる役割ではなく、他の出席者に意見を引き出し、議論を整理しながら、全体の進行を司る役割である。その意味では「私」を主語にしてまとめるのが次善の策だと思う。「学術的な文章においては『私』を登場させてはならない、なぜなら主観的だから」という指導がしばしばなされてきたが、「私」をはずすと「○○と思われる」のような受動表現によってゴマカシが生じやすいので、最近では、判断の主体としてむしろ「私」が出てくるのが自然であるという指導になりつつあるのではなかろうか。私はそのスタイルを支持する。このさい担当教員の指導と異なる場合は「この立場でやりました」と言えばよい。ここは時間を割いて事前に議論していただきたい。
教員の先生に確認しておきたいのは、(先生ご自身のように天才でも秀才でもなく)たいていの学生は凡人であるということを前提にして、学生に過剰な要求をしてはいけないということだ。過剰な要求ができるのは、手取り足取り赤ペン添削の細かな指導ができる場合に限られるべきである。 というわけで、以下の説明は、すべてこの立場で「教育上の配慮」の存在を前提して、なるべく適切な方法をとるという方針で進めていく。このことこそが本書の特徴であるので、この方針をとれない方とは「ここでさよなら」である。グッドラック!
■ニュースを調べる
ニュースに親しむようにしておくことは大学生の知的生活の第一歩である。一年生の基礎演習や入門演習では、もっぱら新聞記事を素材にして授業を進める先生もいるくらいである。高校時代、ニュースをきちんとこなしてきたという人は少ないだろうから、ここからゼミという知的活動を始めるのが適切である。
一年生でスタートダッシュしてニュースへの感度を高めておくと、四年間で相当な知識になる。逆に大学時代に感度を高めておかないと、いつまでも鈍感なままの人生である。後輩に後れを取ったり、みすみす損をしたり、思わぬ恥をかいたり・・・の長い人生が待っている。
ゼミの進め方としては、いくつかのやり方がある。
(1)『朝日キーワード』『日本の論点』のように一年分の時事問題をまとめたものに準拠してテーマ設定をおこない、そのテーマについて自分なりに(あるいはチームとして)調べたことを発表する。
(2)最近一週間の記事の中から自分なりに(あるいはチームとして)自由に選び、それを紹介するとともに、歴史や問題点を調べて発表する。 (3)先生が記事を選んで、それについてチームで議論して、それに対する考えをチームごとに発表する。そして議論へ。 こうしたニュースについて調べるときは、本よりもネットで調べることの方が多いだろう。では、どのように調べるのが適切かを考えてみよう。
■ネットで調べる
「自分はネットに強い」と思っている人は多いと思う。けれども、じっさいには「自分の好きなこと」と「自分の周辺」と「今現在のこと」についてのみ「ネットに強い」だけのことが多いのではないかと反省してみよう。これはネットの特性としてよく指摘されることだが、自分好みにカスタマイズされた世界にとどまって、なお情報過多なので満足してしまうのである。
それに対して、大学で身につけなければならないのは、次の三つを調べる能力である。
(1)自分が好きでないこと
(2)見ず知らずの他人のこと
(3)過去のこと
まず「だいたいのこと」を知る。さしあたってはグーグルでよいし、その検索結果の上位に上がりやすいウィキペディアでもよい。あくまでも「だいたいのこと」を知るためであると割り切った方が賢明である。ウィキペディアについての大学教員の評価は総じて低いが、それは自分の専門分野を見て判断するからであり、しばしば日本語版しか見ていないことが多いからである。編集合戦が多いのは確かだが「知の闘い」の現場が見えて勉強になると思えばよい。それに医学用語のように自分が聞き慣れない言葉を探るにはウィキペディアはけっこう役立つ。しかし、それを丸写ししてはいけない。みすみす罠にかかるようなものである。では、具体的にどういう作業をすればいいのだろうか。
それはサブキーワードをみつけるということである。そして今度はサブキーワードで調べてみる。そうすると詳しい状況や問題点などが出てくるはずである。 それとともに「○○とは」「○○の歴史」「○○の問題点」「○○の動向」などというのでも検索するとよい。これらの情報を掛け合わせて、再構成すると、ある程度のフレームワークが見えてくる。
しかし、グーグル検索では出ないものが3つある。じつは、これをしっかり把握することが大学生のポイントである。
(1)データベース
(2)現在有料販売中の日本語の本の中身(タイトルと一部は出る)
(3)フェイスブックなどのSNS
まずデータベースである。データベース内の情報は格納されているのでグーグルでは検索されない。ただでは出さない、というか流用されないようにしている情報である。つまり、それはお金と手間ひまがかかっていて、パブリシティにはならない情報である。だからこそ役に立つ。新聞記事データベースはかなり役に立つ。たいてい記事はわかりやすく書かれているからだ。具体的なエピソードもゲットできる。経済系なら「日経テレコン」で一網打尽にできる。
販売中の本については、電子書籍でかなり入手可能になっているとは言え(ちなみに英語圏の電子書籍化はかなり進んでいる)、図書館で借りるか古本を買う方が安くつくので、新書か文庫ぐらいは一冊入手するとよい。評判はアマゾンでだいたいわかる。関連する本もだいたいわかる。図書館も完全に分類されているので、書棚の前に立てば様子がわかる。読めそうなものを借りればよい。
学術的なデータベースはCinii(サイニー)などたくさんあるが、おそらく訳がわからないだろうから、大学初心者にはあえて強くお勧めしない。世の中には、いきなり「Ciniiで調べろ」という先生が多すぎる。Ciniiはコピペの温床である。
SNSも役に立つことがある。専門家や事情通の人が発信していることがあるからだ。公式アカウント以外は見分けるのが難しいが、とりあえずの基準は実名で発信していて所属も明示している人である。正しいとかまちがっているとかということではなく「論」として成り立っている可能性が高い。
■辞典と事典で調べる
辞典類については、データベースのkotobankやジャパンナレッジで一網打尽にできる。とくにジャパンナレッジはとてつもなく大規模な辞典類・事典類が網羅されている。これは多くの大学図書館で利用できるはずである。私は自宅でも利用できるように個人で契約している。物書きはそうしている人が多いはずである。
百科事典という本のスタイルは過去のものになりつつある。しかし、電子辞書上では健在だ。これが一番コストパフォーマンスがよい。百科事典の入った電子辞書にしておこう。スマートフォンでも辞書アプリをいくつか入れておくと、精度の高い情報が得られる。辞書アプリは比較的安く、しかもカラフルで、説明の文中の言葉を長押しすると、その言葉の説明にリンクできるものが多いので勉強になる。 専門的なことであれば、なるべく新しい専門事典にあたるのが、ほどよい解決策である。そのさいには、あらかじめ専門分野を特定できていなければならない。『現代用語の基礎知識』があれば、分野特定はかんたんにできるし、ウィキペディアもそういうふうに使えば、いいツールである。
ポイントは、いかに品質のよい情報・知識にたどり着くかである。なんとなくわかったではなく、大学では、情報・知識の品質が問題なのである。品質のよい情報や知識は、何らかの形で保護されているか、本やアプリなどとしてパッケージされて商品として流通していることが多い。そこに踏み込まなければならない。品質にこだわりつつ安くあげるのなら断然、図書館に通うことだ。図書館の範囲であれば司書さんたちのフィルターがかかっているので知識や情報の品質はよいはずである。
■ドキュメント化 こうした探索プロセス自体をレポートにする方法もありである。名探偵や刑事たちが推理を進めるように、あるいはテレビのレポーターのように、自分の探索過程を順々に明かしていくのである。ドキュメント化である。それを上手にするためにはメモを取りながら調べるようにしなければならない。初級編ではまずまず許される書き方だと思うが、どうだろう。 大学初心者にとって、調べ物をして発表するというのは基本的に新しい体験である。小中高でやったと言う人があるかもしれないが、それは「まねごと」にすぎないのであって、たんにコピペをしゃべってほめられる段階であろう。すでに述べたように文化の原型は「模倣」なので、それでもって型を覚えるレッスンをしていたのだ。
しかし、大学に入ると、子ども扱いはされない。先生たちは学問のプロである。右から左に情報を運んで終わりということはない。ポーターからリポーターに変身しなければならない。大学初心者は、その変身の過程をドキュメント化すればよい。
つまり、こんな感じである。「テーマを与えられても、なんだかさっぱりわからなかったので、とりあえずウィキペディアと電子辞書で調べてみたら、こういうことだった。「引用」・・・サブキーワードもわかってきたので、それでもって調べるとだいたいの輪郭がわかってきた。どうもこういう分野があるらしいということがわかったので、図書館の専門事典にあたってみたら、けっこう詳しく書いてあった。最近の動向はどうなのか気になって、新聞データベースでここ一年の記事を出してみたら、問題点が浮上してきた。論点は三つほどある。第一に○○。つまりこういうことらしい。第二に○○。一点目の結果、こういう問題が生じている。第三に○○。その対策として、ごく最近はこういうことがおこなわれているとのこと。まとめてみると、以下のようになる。・・・」以上の文章に、調べたことをはめ込んでいくと形になる。こういうスタイル自体は模倣してよいものなので、一度お試しあれ。
肯定的に見れば、こういうものを「研究ノート」と呼んで「論文」と区別する。初級編では「研究ノート」になれば十分だと思う。通常の研究者でも「研究ノート」をたくさん貯めていって、そこからエッセンスを抽出する形で「論文」を作成するという手順を踏むのが普通である。理系なら「実験ノート」がさらにその前に来る。この「研究ノート」のメディアが、大学ノートからパソコンになり今日のクラウドになっていっただけで、思考の手順はそれほど変化ないと言ってもいいくらいである。「研究ノート」では、自分が見たもの・読んだもの・調べたものを素材感豊かに記録していき、自分の思考過程を「見える化」する。
■記事をレポートする
プレゼンテーションでは、まず名乗る。すべてはここからである。名前を覚えてもらうことは大事なことなので、ことあるごとに名乗ることである。学生には、自己顕示欲が強いと見なされることを敬遠してか、あえて名乗ることを恥ずかしがる傾向があるが、それは間違っている。いざというとき「アンタ、だれ」と言われないように、日常的にきちんと名乗ることから始めよう。
ここではニュースについて報告するケースを考えてみよう。模倣すべき見本は池上彰さんのあの語り方である。テレビを見て、その語りのスタイルを学ぼう。池上さんはすこぶる物知りで、しかもどんなニュースも事前にきちんと調べて、わかりやすく語ってくれるが、そのスタイルはほとんど定型である。その定型を崩さないから、私たちはどんなニュースについても池上流にわかるのである。
(1)こんなニュースがありました。・・・[動向]
(2)○○というのは、かつて・・・なんですね。[歴史]
(3)それがこういうことになっているわけです。[結果]
(4)なぜかというと・・・[理由]
(5)じゃあ、どうすればいいかというと・・・[対策]
(6)・・・そこが問題なんですね。[論点]
このスタイルを模倣してみよう。このスタイルに、調べたコンテンツを投入すればいいのである。
しかし、じつは池上さんには、もうひとつの技がある。それは質問にちゃんと答えることである。これは想定問答を考えて、何も知らない人が疑問に思うであろうことを想像して、ちゃんと用意しておくのである。だから池上さんは「そもそも○○って何ですか」といった質問が終わるか終わらないかのタイミングで答え始めることができる。「そこからですか?」といった質問にも事前に答を用意しているのがエライところである。世の優秀な大学教授はこの点を認めるべきだと思う。
■新書を読む
さて、ニュースについてはこのくらいにして次の課題に取り組もう。それは新書を読むことである。
初年次の基礎演習や入門演習では輪読スタイルをとる先生が多いと思う。読書会のようなものである。初年次では、たいてい新書を読むことが多い。それは一番とりつきやすいからだ。新書は編集者がかなり手を入れて読みやすくするのが通例で、タイトルも見出しも決めるのは著者ではなく編集部である。ちなみに文庫はちょっとグレードが高いものが多い。評価の高い本ではあるが難しいものもある。 さて、最近の新書はこういうものなので軽く読み飛ばせるようになっている。だからダメだというのではなく、たくさん読むことがポイントである。1冊2冊で手こずっているようでは勉強にならない。スピード感をつけることと分量をこなすことが大事なのだ。
とはいうものの、長い文章はライトノベル以外に読んだことがないという人も多いと思う。こういう読書については、どこのキャンパスの学生もスタートラインは同じである。それだけにスタートダッシュしてほしい。
1年生でいきなり一冊丸ごと担当ということはないだろうから、ふつうの新書であれば、せいぜい複数の章を担当してまとめることになるだろう。発表することを前提に読むとなると三回は読まなければならない。
(1)線を引きながら一冊通し読み(担当箇所がどこであれ)
(2)担当箇所を重点的に精読。書き込みしつつ。
(3)使うところを決めるために読む。
■要約の仕方
仕込みが終わったところで、料理に取りかかろう。基本的なスタイルは要約説明である。
よくある「大事そうな箇所を抜粋して並べる」という方法でいいのだろうか。小中高での要約は少ない字数制限でおこなわれるので正解というものが成り立つようにできている。つまり「トピックセンテンス」を抜き書きすればよいというものが多い。それは間違ってはいないが、大学では、かなり長い要約が必要になるので、根本的に態度を変える必要がある。大学生になったのだから、そろそろワンランク上げようではないか。 まず要約の分量を決める。発表時間が15分ほどであればレジュメA4で3枚ぐらいである。持ち時間によるので、それを事前に確認しておこう。
もちろん本の順序に沿って整理していくのもありである。しかし、これだと冗長になりがちで、本はたいてい結論に向かって論述を進めていくものなので、なかなか結論がでてこない。本の書き方に大きく依存してしまうことになる。そこで本書では、ちょっと思い切ったやり方(でも案外うまくいく方法)を説明してみよう。ここでは仮に「論点提示式」と呼ぶことにする。
たとえば本の一章分を担当する場合、論点は一つだけある。三章分をまとめて要約する場合は、おそらく論点は三つである。もし足りなければ随時足せばよい。こう決めて、論点を本から切り出す。読書のさいチェックした箇所を点検して、ここぞという箇所を抜粋する。短くまとまっていれば引用であるし、多少長いようであれば自分なりにまとめる。要素が複数あれば箇条書きにすればよいが、それらは文になっていなければならない。難しくいうと「命題」になっていなければならない。「○○は○○である。だから○○である」といった形にする。
適切な引用をしておくと議論しやすい。トピックセンテンスか、著者自身が「要するに」とまとめている箇所である。出所を明示するためにページ数は書いておこう。引用でなくても、論点として整理されていれば、それをメインに据えて、その論点をほどくように説明を入れていくのである。 つまり構成はこうである。「論点(命題)」を提示して、そのあとに「説明」を配置する。説明は「何でこういうことを著者が主張するのかというと・・・」「・・・こういうことなんです」というスタイルをとればよい。
論点提示式はひとつの解決法である。要約というものに正解はないので、それぞれでいい。多少の振り幅は個性として認知される。教育的には「そういうまとめ方もありかな」という感じである。
さて、注意すべきは事例の扱い。著者があげている事例を丸ごと説明する必要はないが、しばしば見られる「事例だから省略」という考えはよくない。適切な事例は討論のよき素材になる。著者の主張を評価するさいにも、事例をもとにみんなで議論できる。ゼミは議論する場所だから、そこでの発表は「話題提供」になるのである。ゼミは「いかに自分は優秀な学生であるか」を誇示する場所ではない。みんなに突っ込んでもらってナンボのプレゼンテーションなのである。突っ込まれることは悪いことではなく、むしろゼミを盛り上げた功績になる。ツッコミどころ満載にするのに、とっておきの事例は大切である。著者が事例を挙げていないのであれば、多くの先生が講義中にやるように、自分で事例を提示すべきである。ここまでできればすばらしい。
■レジュメの書き方
レジュメはハンドアウトともいう。履歴書の意味があるが、日本ではどちらでもよい。先生の言い方に合わせればよい。
もちろんパワーポイントを使う場合もある。こちらの方がかんたんだ。しかし、ほんとは紙の方がよい。記録が残るし、余白に書き込みもできる。真剣に報告を聞く人にとって、そして質問がある人にとっては、じつは紙の方がよい。しかし、ここは賛否両論ある。パワーポイントはかんたんで、小学生のパソコン授業といえば「調べ学習にパワーポイントで発表」というパターンになるが、それはパワーポイントはごまかしがきくからである。わたしはいつも画面が切り替わるたびに「論理の飛躍」「ストーリーの断絶」を感じる。画像でもごまかせる。とくに意表を突いた画像で笑いをとることもできる。でも私は「ごまかされたなあ」と思ってしまう。会場の雰囲気をほぐして発言しやすくするアイスブレークだと思うから許すのであるが。
さて、紙でレジュメを配付する場合、作業はワープロでレジュメを先に作成する。そこに書き入れることは上記のような論点提示式に整理したものである。デザインはできる範囲でヴィジュアルに凝ればよい。
発表はレジュメを見ながら自分の言葉でするのが原則。しかし言葉が出てこない場合もあるので、補足してしゃべることを事前にレジュメに書き込んでおくとよい。発表の場で本を出して読み上げるのはよくない。退屈だし、準備不足。ノートにまとめておくか、レジュメを複製して別のファイルを作成して、自分用の詳しい説明付きレジュメを書くようにすればよい。しばしばしゃべる内容を完全原稿にして、それをただ読み上げて終わりという人がいるが、それだとライブ感に乏しい。つまり聞きづらい。「今、ここで、自分が発言している」感が必要だ。完全原稿にするのは悪いことではないし、言葉に詰まるのが怖いのはよくわかるものの、せいぜい「ちらちら見ながらしゃべる」くらいにした方がよい。
そういうことがスムースにできるためには、対象となっている本の担当部分を何度も読み返すことが必要だ。いったん自分なりに論点ができレジュメにまとめたあとに読めば、本の内容はぐいぐい頭に入ってくるものである。人は既知となった知識をもとに学習すると効果があるものだから、いったん既知にしたその本を読み返すと細かいところの意味も理解できるようになる。そうなると自信もつくので堂々とライブ感たっぷりに発表できるはずだ。
最後にもう一言。スケッチブック・プレゼンテーションはいかがだろう。一度、基礎演習でやってみてもらったが、みんなテレビのキャスターのように、けっこう楽しくできていた。こちらはアンプラグドである。電気もコードもいらない。ただし、きちんと編集する作業が必要となり、本気で取り組むと、こちらのほうがじつは難易度は高い。準備にかけた時間によって出来にかなり差が出るのもおもしろい。
■書評の書き方
前節までは新書本の一部を担当する発表のことを説明したが、今度は一冊丸ごとの場合を考えてみよう。一冊丸ごととなると、それは書評と呼ばれるものになる。けっして読書感想文ではない。感想なんて採点評価しようがない。大学では、この場合、書評になっているかどうかが問われているのである。
書評を書くことは大学での勉強の基本である。書評とは、対象とした本を読み、内容について適切に説明したのちに、批評的に論じる文章のことである。まず、本が指定されているケースについて。
手順は「新書を読む」で説明したことの拡大版になる。最初に決めておかなければならないのは分量である。A4で三枚程度なら、大きな論点一つで十分だが、A4で十枚程度なら、論点は三つから五つ設定することになる。じつは後者の方が書きやすい。大学初心者の場合は、本の内容に畏れ入ってしまって、ざっくりと論点を切り出すのが難しいからだ。
書評を書くときに、本のタイトルは意外に当てにならない。むしろ目次をじっくり眺めよう。章なら章のタイトルを見て、そのショートアンサーを本文から見つける。それで論点とする。その作業を繰り返して十章なら十個の論点を書き出して、それらの相互関連を見定める。それらの論点の間には主従関係のようなものがあるはずである。それを自分なりに再構成していくのである。それでアウトラインの完成。 次に、このアウトラインに見合うコンテンツを見つけていく。論点つまり基本命題を解説する素材を本文から探すのである。引用すべき箇所があれば引用し、要約すべき箇所があれば要約する。それぞれページ数を書き込むことが必要である。一冊の本しか扱わないのであれば(5ページ)でかまわない。
そうやってアウトライン丸出しのトルソーができる。これを文章として流れのあるものに推敲(すいこう)していくと出来上がり。・・・のはずだが、新書本といえども高度な内容が盛り込まれているので、このプロセスの中で何度も読み返すことになるにちがいない。それでようやく「ものになる」と考えよう。そのさい、自分の頭の中に生じる反応もどこかに位置づけておくといい。素朴な疑問やささやかな反論もあっていい。それが本文で解決されたのであれば、それを記録しておこう。解決されなかったら問題点として提起すればよい。
昔、書評仲間の関係で同世代の作家さんと飲んでいたときに「私は書評となると何回も何回も読み返しますよ」と力強くおっしゃられていた。多作な方なのに、そういうものかと思った記憶がある。そう、だから書評を書くのは「いい勉強」になるのである。
■書評対象の選び方
適当に本を一冊選んで書評を書けというのは一段高いレベルになる。本を選ぶのが、けっこうたいへんなのである。いくつかヒントを書いておこう。 著者がひとりで書き下ろした本がわかりやすい。共著や論文集はわかりにくい。章によって著者や意図が変わるからである。いろんな人がいろんな角度で論じると、そこに議論の土俵が浮かび上がってくる。それを提示するのが目的だったりするからだ。しかし、特定の章や論文を特定して読むのは案外近道である。そういうものは焦点が明確だからである。
この文脈では文庫本が適切である。評価の高い本が文庫になるという「コンテンツ成り上がりのすごろく」があるので、良書が多いし、単著が基本なのでまとまりもよい。ただし時間がたっている。最近のものでも数年前の刊行になるし、有名な本はたいていかなりの年数がたっている。この時間差が若い人には障壁になる。
逆に、私たちは、この時代の雰囲気というものを感じて生きているから、今現在のものは共通了解があるので読みやすい。そういうわけで、出たばかり本は読みやすいのである。となると新刊の単行本がわかりやすいかもしれない。
専門書であることという条件がついていたら、まっしぐらに大学図書館で探そう。分野が指定されていたら、その分類の書棚に行けばよい。データベースもいいが、手にとってみるのが一番である。
最初は日本人研究者が書いたものがいい。総じて翻訳は難しい。
大学初心者の場合、どんな本を読むにしても前半部に注目すること。後半部は手強いことが多い。前半だけでも書評にはなる。千代舎の問題関心をしっかり受け止められれば十分である。
■短いレポートに何を書くか
次に、指定されたテーマでレポートを書く場合を考えてみよう。私は基礎演習の後半で必ずこれをしてもらう。25人クラスのケースだと30強ぐらいのテーマを用意して、できそうなものをひとりひとりに選んでもらう。そうして全員が各自固有のテーマをもつようにする。 私はとくにカタカナ語をテーマに選ぶ。かつて翻訳語は漢字で表記されたが、今は音をそのままカタカナにして、違和感をあえて残すやり方で流通してしまうことが多い。たとえば「インフォームド・コンセント」は、かつては「説明と同意」とか「よく説明された上での同意」と訳されたが、訳語を当てる段階で解釈や見解が入ってしまうから、いつのまにかカタカナでいいじゃないかというふうに変わってきた。でもカタカナだと長いから病院では「IC」である。万事こんな具合である。
テーマが決まったらアウトライン専攻型で行こう。アウトラインは指定してもよいくらいである。私は基礎演習では指定している。
(1)概念
(2)歴史
(3)論点
(4)動向
順序はどうでもよい。この四つを書くのである。もしこれをチームに分けてやるとすると四人でやるとよいことになる。これらはそのままサブキーワードになる。
アウトラインで書こうと決めると、けっこう長いものも平気になる。調べて書く場合、短くまとめる方がかえって難しい。字数や発表時間に制限がないのであれば、アウトラインでかっちり書こう。字数制限がある場合は、いったんまとめた長いものを短く要約すればよい。これを「刈り込む」などという。二度手間になるのを嫌わないことがとても大切である。このさい「身を惜しむな、要領に走るな」が大学初心者に贈る言葉である。
専門分野のレポートとなると別のレベルになるが、教養科目などではこれでたいていいけるはずだ。ただし先生によって評価が異なるので注意が必要だ。万事、大学というところは先生によって裁量がちがう。
調べ方についてはすでに述べたので、心してほしい点を若干加えておこう。
初めて取り組むテーマの場合、自分の立ち位置を決めるのが難しい。だから準拠すべき一冊を入手するとよい。新書か文庫で探すのが無難であろう。内容はいろいろ調べたことを取り混ぜればよいが、自分の視点のさしあたりの立ち位置はきちんと決めておくと明解なレポートになる。
どのようにパソコンでレポートを書くか。編集と構成。コピペの回避。感想の位置。このあたりについては次の本が徹底して説明している。
・山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室』(新曜社、2013年)
とくに異論があるわけではないが、ここでは大学一年生の実態に即して、もう一段「ゆるく」しておきたい。
コピペは「楽」だからするのだと、厳しい学問世界を生き延びてきた先生は決めつけるのであるが、もうひとつの側面があって、それは今どきの学生は「謙虚」だからである。確実に昔の方が「ゴーマン」な学生は多かった。居直りのような答案とか、そもそも「試験粉砕」のような巧妙な回避方法を集団でとる世代もあった。私が知っている今どきの学生(評価をつけたのは累計2万人ぐらいになるはずである)は、そんなに間違ったことは書かない。たしかに「受け売り」は多いかもしれないが、レポートや試験と掲示板との使い分けぐらいは適切にできるのである。
この立場なので私自身は教員としてレポートそのものを出さない方針でやっている。つまり、ゼミの現場で発表してもらうか、内容をいったん頭に入れてもらって、それを試験方式で書いてもらう。完成度よりも時間制限を優先させることと、きちんと準備することを覚えてもらうことと、何より、そのテーマについて手元に資料がなくてもある程度しゃべれるようになってほしいからである。このさい本音を言ってしまうと、この時代にオリジナルなレポートなんて成り立ちやしない。上手に編集された明解なレポートと発表で十分ではないか。先生方も、レポートを使った才能探しは、もうやめたほうがよいのではないかと思う。
■大学の中の学校と社会と学問
これまで大学一年生を念頭において説明してきた。そういう限定付きで「次善の策」あるいは「とりあえずここまで」を説明してきたつもりだ。読者には、ここにとどまることのないように、先に進んでほしい。
導入編の最後として、大学という現場の特徴について説明しておこう。こういうことは最初からわかってしまえば何でもないことであるが、案外カン違いしていることがあるものである。
まず、大学というところは、半分は学校で、もう半分は社会である。
近年の大学は「学校化」していて、学生を一人前の大人として扱わないところがある。学生の半分は未成年なので、それも一理あるが、カリキュラムの改編ごとに必修科目が増えたり、出席要件がきびしくなったりする。とくに語学・体験型・実習型・専門基礎科目の授業は出欠重視である。一年生の時は、あまり大学らしい自由がないと思っている人も多いと思う。
ところが一方で「試験さえできればよい」といった授業もあるし、出席点を認めない授業もある。努力賞がないのである。これは「社会」の側面である。成果主義というか自己責任というか大人扱いといった考え方がセットになっている。履修自体も学年が上がるごとに自由度が増すはずである。大学がだんだんシビアな社会の写し絵のようになっていく。
視点を変えてみよう。大学は半分は学校で、もう半分は学問世界である。学問世界は厳しいが、それに準拠しておくと社会で役に立つ。ジャーナリズムも教育もビジネスも、学問の精神を基準にやると間違いがない。高度な専門性を謳う学部は、厳しい学問世界のルールによって支配されていて、本書で述べてきたような処方箋が否定されることも多いと思う。「どうせそうでなくてはやっていけないのだから、最初からアカデミックにやれ」ということである。すでに述べたように、いずれにしても小中高の「調べ学習」的な常識は通用しない。
だから大学は「ひとつ」ではなく「ひとつと半分」なのであり、過剰なものを抱えているというわけだ。単位は三年半でおおよそ取得できるものだが、まともにやると四年間には収まらないだろう。そんなにのんびりしてはいられないだろうと思うので、私はスタートダッシュを勧めるのである。
この点で、ありがちなパターンを踏んでいては、そのままリアル社会に出ると通用しないことがあるので、しっかり勉強しておくことをオススメしておく。「なんとかなる」「好きなことしかしたくない」とか言っていても、残念ながらリアル社会はそれを認めないことが多い。具体的には、つまり一人前に稼げない。あるいは、若いときはいいけれども、25を超えたあたりから年下の若い上司から命令されるようなことが頻発する。まあ、それはどこで働いても同じで、もっと歳を取るとどうでもよくなるのだが、比較的若いと苦になる人は苦になるのである。また、二重に自由なフリーランスでやっていくには、健康な楽観主義と日常的な知的積み上げがしばしば必要になる。知的にタフにやっていかないと生きづらい社会ではあるのだ。
以上、大学初心者は「案配」がわからないだろうから、余計なお節介とは思いつつ、初級編の「案配」を説明してきた。学生数の多い私立文系やカタカナ学部であれば、ざっとこんな感じである。みなさんのキャンパスはどうだろう。
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