2022年1月17日月曜日

『リフレクション』第五章 コミュニケーション論の視圏(3)市民的公共圏の理念

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理(3)市民的公共圏の理念

現代日本の公共性概念

前節では第二水準に即してコミュニケーションの因数分解のような話をしてきたが、今度は第三水準に即してマクロな社会的場面へ開いて展望し直してみよう。第三水準における話想宇宙、あるいは理想的発話状態が期待されているマクロな社会的空間──それは「市民的公共圏」と呼ばれる。この節で検討するのはこれである。

しかしその前に、日本語の「公」ということばにふくまれているふたつの意味を区別しておかなければならない。たとえば「公職」「公立」「公共事業」「公費」の「公」は国や地方自治体などの統治機関をあらわしている。つまりそれは公権力のことである。したがって対立概念は「私」である。それに対して「公衆」「公民」「公開」「公表」「公会堂」「公益」の「公」は社会の人びとの集合をあらわしている。社会のメンバーの「だれもが」参加する・知ることができる・出入りできる・利益を受ける……といったことである。つまり「開かれた公的領域」をさしている。したがって対立概念となるのは「閉ざされた私的領域」であるが、同時に「公権力」とも対立するものなのである。

現代日本語として流通している「公共」ということばは、じつは以上のふたつの異質な意味を思慮なく混同させたまま使われている。「公共性」「公共の福祉」といわれるとき、これは同じ社会に暮らす「みんな」──「私」の集まり──に関係する事態であることを意味する。公権力はそれをいわば代行して進めているにすぎないわけだが、じっさいには、公権力が進めているから「公共的」であるかのように事態が進められていってしまう。ここでも一種の物象化的錯視が生じている。

もう少し具体的に説明しよう。船橋晴俊は、公共性概念が社会的合意を形成する共通基盤になっていないと指摘する。船橋によると、その大きな要因は、公共事業の規模の大幅な拡大によって受益圏と受苦圏が完全に分離してしまい、公共性の内容が変質してしまっていることによるという。つまり、図書館や公民館の建設のように小規模な公共事業の場合には、受苦が比較的軽く、その防止や補償がわりあいかんたんである。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ重なっている。そのような状況において公共性はある程度の正当性をもつといえる。ところが、新幹線や空港のように大規模な公共事業は、受苦の質と量が深刻で、その防止と補償はきわめてむずかしい。しかも、受益圏と受苦圏はほぼ完全に分離しており、事業の担い手としての巨大組織──公権力かそれに類した法人──は受苦圏の人びとの意思を反映できない。このような状況において、公共性概念は「事業予定地でそれまで生活してきた人々に対して立ちのきと生活再編を要求する、うむを言わさぬ論拠として作用」するとともに、「加害者を免責し、被害救済を拒否し、受忍限度の引上げを正当化し、被害者を未解決状態に閉じこめる作用を果たし」しかも「住民運動にマイナスイメージを植えつけ」る装置として作用する。つまり現代日本の「公共性」概念は被害者救済を阻止する機能をもたされているのである。●15

このように「公共性」概念は今日の日本では「権力のことば」と化している。わたしがこれから「反省のことば」として説明したいのは規範的理念としての公共性であり、だからこれと差異化しなければ議論が混乱してしまう。そこで花田達朗の提案にしたがい、本書では「公共性」ということばをいったんペンディングしておき、かわりに「公共圏」を使うことにする。●16

市民的公共圏

もともと「市民的公共圏」(die bu`rgerliche O`ffentlichkeit)という概念は、近代初期の西欧社会に成立した歴史的現象をさす歴史概念である。つまり「あるべきこと」ではなく「すでにあったこと」をさすことばである。ハバーマスによると、公共圏の考え方は古代ギリシャにあったものだが、それが初期資本主義による商品と情報の流通の発達のなかで、公権力に対抗するために、公衆として集合した民間人(市民)によって形成された社会的空間である。●17具体的には一七世紀後半から一八世紀にかけてサロン・コーヒーハウス・会食会などに集った市民たちの議論がそれである。そこには共通の基準があった。第一に「そもそも社会的地位を度外視するような社交様式」「対等性の作法」。第二に「それまで問題なく通用していた領域を問題化すること」。教会や国家による上からの解釈から自由に討論する。第三に「万人がその討論に参加しうること」つまり原理的な公開性。●18これらの基準に則って文芸・演劇・音楽作品が自由に批評され(文芸的公共圏)、その焦点はやがて政治的問題に移っていった(政治的公共圏)。新聞などのジャーナリズム活動はこの市民的公共圏から派生したものである。政治的公共圏はやがて国家機関として制度化される。公共圏が国家機関の手続き上の組織原理になったのである。しかし一九世紀になると、市民的公共圏が前提していた私的領域と公権力領域の分離の構図がくずれて、近代の基本原理だった市民的公共圏は操作的公共圏へ構造転換することになる。「批判的公開性は操作的公開性によって駆逐される。」●19今日わたしたちが経験するのは市民的公共圏の変質したものである。

市民的公共圏の原型は一八世紀イギリスのコーヒーハウスに求めることができる。ルイス・L・コーザーによると、一八世紀初頭のロンドンには約二千軒のコーヒーハウスがあり、そこではカウンターで一ペニー払えば、だれもが対等かつ自由に会話や討論に加わることができたという。●20あるときはだれかが読み上げるニュースを聞き、あるときは詩人や批評家の自作朗読を聞いたり、それに対するさまざまな批評を聞くことができた。そこでは身分や礼儀作法・道徳とは関係なく個人が評価された。「コーヒーハウスは身分差を解消した。しかもそれと同時に、新たな統合形態をつくり出した。すなわちコーヒーハウスは、共通の生活様式や共通の家系に基づく連帯を、共通の意見に基づく連帯におきかえる役割を果たしたのである。ところで、共通の意見が発達しうるためには、前もってつぎのような条件がなければならない。すなわち、第一には、人びとが相互に討論しあう機会をもつことである。つぎには、彼らが自分だけの思想という孤立状態から引きづり出されて、公けの世界に入りこむ必要がある。それというのも、公けの世界においてはじめて個々の意見は他者との討論によって磨かれ、吟味されるからである。コーヒーハウスは、無数の個々の意見からひとつの共通の意見を引き出して結晶化し、それにはっきりとした形を与え、安定したものとするのにあずかって力があった。つまり、新聞がまだ成し遂げていなかったことが、コーヒーハウスによって大規模に行なわれたのである。」ここで「公けの世界」と訳されているのが公共圏である。●21

市民的公共圏の概念は、このような歴史概念であると同時に、他方で、わたしたちの社会を構成する規範的原理でもある。それゆえハバーマスは次のようにいうのである。「今日われわれが『公共性』という名目でいかにも漠然と一括している複合体をそのさまざまな構造において歴史的に理解することができるならば、たんにその概念を社会学的に解明するにとどまらず、われわれ自身の社会をその中心的カテゴリーのひとつから体系的に把握することができると期待してよいであろう」と。●22コミュニケーション合理性は市民的公共圏をモデルにしている規範的理念であり、複雑化した現代社会において変質してしまってはいるが、わたしたちの社会の中心──それがもはや虚点であろうとも──に存在する組織原理なのだ。

もちろんコーヒーハウスのような一八世紀の市民的公共圏がそのまま理想というのではない。何よりそこでは女性が排除されていた。これは致命的な問題である。財産と教養がない者やよそものも事実上排除されている。●23しかし重要なことは、少なくとも万人の参加の「可能性」は保証されていたということだ。というのは「市民的公共圏は、一般公開の原則と生死をともにする。一定の集団をもともと排除した公共圏は、不完全な公共圏であるだけでなく、そもそも公共圏でないのである。」●24じっさいコーヒーハウスにしても一八世紀後半になると常連たちが非公開のクラブをつくるようになりしだいに閉鎖的になっていく。しかし、そのかわりにさまざまなジャーナリズムが公共圏を引き継ぐことになる。●25その意味では理念型的なモデルとして位置づけておくのが適当であろう。

この点についてはチャールズ・ライト・ミルズがおもしろいことをいっている。「われわれはあたかも完全に民主主義的な社会にいるかのごとくに行動し、そうすることによって、その『かのごとく』を転換しようとする。社会を一層民主主義的にしようとするであろう。」●26市民的公共圏とは〈演じられた社会〉である。あたかもそこに民主主義的なコミュニケーションの場があるかのように演じられるのだ。演じられることでそれは現実になり、現実として人びとの行為の条件の一部となる。知識過程論で確認したように、人びとの知識として共有されているフィクション──知識事実としての社会──なしに社会的現実は成立しないのだから。●27

担い手としてのコミュニケーション主体

市民的公共圏の担い手としての人びと、つまりそこでコミュニケーションする人びと──わたしはそれを「コミュニケーション主体」と呼びたい──はいかなる存在だろうか。社会学の伝統的概念を呼び起こせば「公衆」がそれであろう。

ハバーマスが紹介しているミルズの『パワー・エリート』における「公衆」と「大衆」の区別を見てみよう。●28

ミルズは次のように述べているという。「『われわれの用法でいう公衆においては、第一に、多くの人々がさまざまな意見を受けとるだけでなく同時に表明し、第二に公衆のコミュニケーションは、そこで表明されるどの意見に対しても、直接に且つ有効に応答する機会があるように組織されており、第三に、このような討論によって形成された意見は、必要とあらば権威の支配的体系にさからってでも、効果的行動への出口を見つけることができ、そして第四に、権威的制度は公衆に浸透するものではなく、したがって公衆はその活動において多少とも自律的である』。これに反して、意見は『大衆』のコミュニケーション連関にとらわれているかぎり、それだけ公共性を減ずる。『大衆においては、意見を受けとる人々よりも意見を表明する人々の方が遥かに少数である。というのは、公衆の共同体は、マス・メディアから印象を受けとる個々人たちの抽象的集合になるからである。第二に、有力なコミュニケーションは、個々人がそれに直接に、あるいは効果的に応答するのが困難もしくは不可能であるように組織されている。第三に、意見の行動的実現は、このような行動の水路を組織し統制する権威によって統制されている。第四に、大衆は制度からの自律をそなえておらず、むしろ反対に、権威ある制度の代行者がこの大衆に浸透し、討論による意見形成において大衆がもつかも知れぬ自律を減少させる。』」●29「公衆」が「市民的公共圏」に対応するコミュニケーション主体だとすれば、「大衆」は「操作的公共圏」に対応するコミュニケーション主体である。

しかし、わたしはもう少しだけ詳しい人間類型を使う方がいいのではないかと思う。というのは、ミルズの二類型だと、「では、わたしたちは『公衆』と『大衆』のどっちなんだ?」という短絡的な議論になりがちだからだ。そこでわたしは、アルフレッド・シュッツが知識のあり方をめぐって構成した三つの理念型を利用して説明したいと思う。●30

その第一のものは「専門家」(expert)である。専門家のもつ知識は領域が限定されているが、そのかわり、その専門領域においては明晰で一貫している。かれらはその専門領域においてすでに自明と見なされている準拠枠を受け入れている。

第二の類型は「しろうと」(man on the street)である。「市井の人」「日常生活者」「一般大衆」「日常人」とも訳されるが、処方箋的な知識で満足する者という点で、わたしたちがふだん「しろうと」と呼んでいる者のことだ。ミルズのいう「大衆」にほぼ対応すると考えてよい。かれらの知識は基本的に実用本位のものであり、かなり広い範囲に渡ってはいるものの、首尾一貫していない。かれらは実用的目的以外のものごとに対しては感情的に対処し、一連の思い込みや明晰でない見解を構成し、自分の幸福の追求にさしさわりのないかぎり、素朴にそれらに頼っている。

第三に「見識ある市民」(well-informed citizen)。「自省的市民」「博識の市民」「分別のある市民」「有識市民」などとも訳される。「多くの知識(情報)をえることをめざしている市民」●31の省略形である。ミルズのいう「公衆」に対応すると見てかまわないだろう。「見識ある」(well-informed)とは「当人の手許の実用的目的に直接関係がなくても、少なくとも間接的な関心はあるとわかっている分野について、正当な根拠をもつ意見に到達すること」を意味する。●30だから上記の訳語はそれなりに適切なものだが、もっとそっけなく訳すと「事情通の市民」ということになる。それも特定の分野についての事情通ではなく、社会生活のあらゆる領域について事情通であろうとする人たちである。

現代人は、その職業生活や家業において「専門家」であるが、専門以外の領域に関しては「しろうと」である。しかし専門外のことに関してもときには「事情通」「見識ある市民」でもあるはずだ。シュッツのこの概念を借りれば、市民的公共圏の担い手は自己教育的な「見識ある市民」「自省的市民」ということになろう。つまり、わたしたち自身の「見識ある市民」の側面を自覚的に発動させることが市民的公共圏を現実のものにするのだ。

社会学の理念としての市民的公共圏

社会におかれたありとあらゆる営みは必ず何らかのアプリオリな前提から出発しているという定理は社会学にも当てはまる。わたしは社会学の前提となるアプリオリとして市民的公共圏の理念があると考える。「社会学は近代社会の自己意識である」という古典的な命題もこの意味で再解釈──もしくは読み換え──できるのではないか。そして社会学が概して全体主義的な社会から排除されてきたのは、社会学がほとんど暗黙のうちに前提している市民的公共圏の理念の存在によるのではないか。この「社会学と民主主義の歴史的親和性」ともいうべき性格は二〇世紀の社会学の発展のなかでしだいに鮮明になってきたと思う。

わたしには不満でならないのだが、社会学史はとりもなおさず「迫害の歴史」であることを社会学者はもっと強調すべきであろう。そしてそれは一九世紀なかごろに活躍した「社会学」概念の創始者たちにだけいえることではなく、一九世紀から二〇世紀への「世紀の転換期」における社会学の理論上の創始者たちにもいっそういえることである。概念の創始者たちには「社会改良」「社会再組織」の理想と情熱が先行していた。それは国家という公権力の強制力に対して、私人たちの相互作用の集積である市民社会の潜勢力を解放したいとの動機に基づいていた。公権力への対抗という契機が社会学にはあった。理論上の創始者のひとりであるジンメルが「社会学を研究している」という理由によってベルリン大学教授になれなかったのも、かれがユダヤ人であったからばかりでなく「社会学」という概念がそのような志向を体現していたからである。公権力はそれを見逃さなかった。そしてそれは二〇世紀の中期を変貌させたファシズムと社会主義によってだれの目にもはっきり見える現象となって顕在化した。ファシズム期の社会学は事実上「国家学」に吸収され、マンハイムやフランクフルト学派のユダヤ系社会学者は大学を追われた。他方、社会主義圏では、のちに粛正されることになるブハーリンが社会学者だったことも災いして、社会学の研究はしばらく不可能な状態が続いた。社会学が解禁されたのはスターリン批判後の一九六〇年前後である。中国でも革命直後から一九七九年まで社会学は禁止されていた。戦時中の日本においても「国家学」が何よりも大事であって、公権力にとって「社会」──つまり市民社会──の研究は望ましくないと考えられた。国家が天皇を中心とする「聖なる世界」だったのに対して、市民社会は「俗なる世界」にすぎないとの序列主義もあった。

このように民主的でない社会において社会学は抑圧される一方、民主的な社会において社会学は急速に発展する。戦間期から第二次世界大戦後、社会学の中心がヨーロッパからアメリカへシフトするのは偶然ではない。さらに一九六〇年代後半の一連のカウンター・カルチャー運動が、エスタブリッシュ化しつつあった社会学に転回の転機をあたえた。公民権運動・フェミニズム運動・ベトナム戦争反対運動・学園紛争・若者文化・消費者運動・新左翼運動・ヒッピー文化・ロック……。これらの潮流は、それまで順調に発展してきたと信じられていたアメリカ社会のもうひとつの側面を照射するものだった。

このような転回はすぐに社会学理論そのものに反映した。反省社会学はその一例であるが、パーソンズの機能主義的社会学に対する新しいパラダイムとして、ゴッフマンのドラマトゥルギー、エスノメソドロジー、シンボリック相互作用論、批判理論、コンフリクト理論などがあいついで登場し、そのプロセスのなかでミードのコミュニケーション論やシュッツの現象学的社会学がリバイバルする。この転換は「意味学派」とか「解釈的パラダイム」の台頭などと呼ばれたが、総じてコミュニケーション論的転回と括るべきものだった。その意味において一九八一年の『コミュニケーション行為の理論』(邦訳名は『コミュニケイション的行為の理論』)に結晶するハバーマスのコミュニケーション論的転回はその象徴的できごとだったといえる。このコミュニケーション論的転回によって社会学の視界に今日はっきりと見えてきたのが市民的公共圏の理念なのである。

理念をあつかうのは「経験科学」としてふさわしくないという批判は、社会学の内部にも外部にもある。たしかに社会学はユートピアについて夢想する場所ではない。あくまで現実について語る場所である。しかし市民的公共圏の理念を再確認する背景には、理想や価値に対して、それを暗黙の前提として自明化しないとの態度が存在する。それらへの言及を回避することは、結果的にそれらを不問に付しブラックボックス化することになる。むしろそれらをあからさまな公開討議の場にさらすことこそ合理的な科学的態度ではないだろうか。しかもすでに述べてきたように、この理念は、あきらかにわたしたちの社会の基底にあって支えているものであり、また言語を用いる日常のコミュニケーションの実践の内部にすでに宿っているものなのである。

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