2022年1月16日日曜日

健康クリーシェ論(3)

健康クリーシェ論:健康関連広告におけるクリーシェの諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築(3)

野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年12月6日表示11件

11 ヘルシズムという共同言説空間

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■共同言説空間としての折込広告

折込広告を素材にして健康言説の切り出し作業をおこなった結果、28の健康クリーシェのノードをえた。それらを七つの言説系に位置づけながら、個々のノードの実態を読みほぐしてきた。[表2]

すでに確認したように、折込広告における個々の健康関連広告は、以上に提示したさまざまな健康クリーシェのノードを組み合わせることによって成り立っている。

たとえば「禁煙楽々」(資料5)は、「反響続々」として「他者の承認」(ノード26)のあることを前面に出し、「タバコを吸いたくなったら、代わりに『禁煙楽々』の香りを吸い込んで下さい。爽やかな植物エキスの香りをかぐうち、タバコへの欲求は自然に消えてゆきます」と「お手軽主義」(ノード20)を謳う。「天然の貴重な植物原料」「中国原産の6種類のエキスでつくられた」と「素材よければ主義」(ノード10)に訴え、開発グループの「北京第一医薬大学薬物学教授」のメッセージを顔写真入りで掲載して「非西洋医療権威主義」(ノード5)で正当化する。

裏面では、「タバコの害を知る」との見出しの下に新聞記事を並べ「タバコはこんなに怖い」と「死への恐怖」(ノード15)を語る。新聞記事のひとつは、母親の妊娠時喫煙によって新生児に発ガン物質が伝えられるとする外電が使用されており、「子供のためです……たばこ吸わないで」との白抜きの見出しが目立つ。これは「嗜癖不道徳説」(ノード14)を引用しているのである。コピーされたふたつの新聞記事には「愛知県がんセンター」「米ミネソタ大学がんセンター」といった「医学的権威主義」(ノード3)による「近代医学言説」が語られており、そのようなマスコミ報道が傍証として利用されている。こうして恐怖を煽っておいて「どんなに喫煙歴の長い人でも、禁煙して約5年で、肺ガンにかかる危険が非喫煙者と同じレベルまで下がる」として「まだ間に合う言説」(ノード18)をぶつけてくる。そして「喜びの声!」という体験談が三件掲載され、禁煙に失敗し続けてきた遍歴をもつ人たちの「遍歴言説」(ノード21)と、その人たちが禁煙できたとする「生まれ変わり言説」(ノード22)が語られる。その遍歴の中には「タバコを吸うから病気になり、どんなに治療をしてもタバコを続ける限りいつまでも良くはなりませんよ」と医師から忠告された話もある。これは「リスク放置非難言説」(ノード13)である。そして「そんな私を見て噂も広がり、我が社では禁煙楽々が大変ブームになっています」と、再び体験談で「他者の承認」(ノード26)を強調するのである。(資料5)

なるほどこのケースでは周到に計算されているが、全般的には「その場しのぎのブリコラージュ」といってよく、自分たちにとって必要なノードだけを引用して、それぞれのナビゲート構造をつくりだしているのが実態である。ひとつひとつのノードに対して私たちは批判的でいられるが、ひとたびこうしたブリコラージュが提示されると、読み手は混乱し、とたんに個々のノードが説得味を帯びてきて、饒舌な健康言説によって隠されるものに気づかないまま、ひとつの実践(商品の購入)へと導かれていく。

ただし、それらがすべて広告主の思惑通りに進むわけでないのはいうまでもなく、そこには読者のリテラシーの限界を当てにしているところがなきにしもあらずである。批判的に読むかぎり「実践」への道は遠い。複雑系経済学の指摘する「視野の限界」「合理性の限界」「働きかけの限界」が大いに期待されているわけで、あえて狭い言説宇宙に閉じこもる人たちの少なくないことが、これら甘い戦術の広告主たちにある程度都合よく作用しているのであろう。[注20]

健康を語る他のメディア言説との比較は今後の課題である。また、広告とパブリシティとの比較もしなければなるまい。ニュースでのとりあつかいも将来の課題である。たとえば、今回の調査では意外に精力増進を謳ったものが少なかったのだが、これはマス・メディアにおける昨今のバイアグラ報道の過熱ぶりとはあきらかにちがうものである。所詮、ビッグ・メディアは多数派向けのメッセージしか流さない。精力減退以外に身体的不調を感じないような健康な人たちに向けた言説なのである。ところが、折込広告はそうではない。ビッグ・メディアから排除された少数派の人たちに親身に語りかける。すでに「先取り的自己言及スタイル」として提示したように、概して折込広告は「説得の論理」ではなく「共鳴の論理」によって支えられている。論理的説得ではなく感情的共鳴というべきだろうか。マイノリティのための共感の言説なのである。だからこそ読者の知識在庫にあるクリーシェの範囲内で健康言説を駆使するスタイルをとるのである。たとえそれがローセンスであってもかまわない。呼びかける相手もまたローセンスなのだから。

この点で注目しておきたいのは、ウェッブによる企業広告との類似性である。というのは、このあたりはウェッブ上での直接販売の広告とよく似ており、素人臭く饒舌で理屈っぽいスタイルは、分散型ネットワーク社会における広告表現としてはむしろ現代的とさえいえるかもしれない。いうまでもなく「分散型」とは、広告表現に即していえば、強大な送り手が周到な手を尽くして管理し表現するのではなく、かぎりなく消費者・受け手に近い人たちが直接手を下して表現し、それがそのままダイレクトに流通することを意味する。広告表現としての折込広告は、その意味でウェッブ広告の先駆け的なところがある。それは「一周遅れのランナー」なのである。

そもそも、これまで折込広告を読解してきたのは折込広告の媒体特性を研究するためではない。本研究の目標は、健康にまつわるクリーシェの宇宙を整理すること、そしてそこに存在するベクトルを培養型ナヴィゲート構造(権力作用)として社会学的に理解することだった。私たちが折込広告を研究するのは、私たちが日常生活において健康を主題としてコミュニケーションしている、まさにその言説空間を折込広告が反映していると考えたからにほかならない。対面的コミュニケーションの現場でたえず復唱される健康言説を、折込広告という固定された媒体に観察できるクリーシェに確認してきたということだ。

折込広告における健康関連広告の多くはいささかあやしげな世界の存在を提示している。しかし、それは私たちが内在化している現代文化におけるヘルシズムのあやしげな世界を直裁に投影しているからである。それは私たちが日常生活において感受している健康文化のいわば曼陀羅なのである。

おそらく媒体を拡大してこのような渉猟を続ければ、より豊富な言説群を取り出すことができるであろうし、事例もふんだんに提示できるだろう。今回の調査でおおよその見通しがついた。ノード間の連接関係の考察がまだできていないが、これも将来の課題である。おそらく社会史的な考察が必要になろう。

■民俗宗教としてのヘルシズム

最後に、今回の調査の暫定的結論として(つまり次回からの理論仮説として)一点提起しておきたい。これも近い将来の研究課題としてさらに裏付けをしなければならいないことであるが、今回の作業でおおよその理論的輪郭がえられたものである。

健康関連の折込広告を通して健康言説を精読するという作業の結果、筆者が確信したのは、広告という共同言説空間で自生的に構築されている健康言説の宇宙がすでに民俗宗教の域に達しているということである。ヘルシズムの実体はことば(つまり健康言説)であり、これといった中心はない。一種の中心なきコスモロジーを形成している多種多様な健康言説があるだけである。人びとは健康を語ることによってヘルシズムの言説宇宙の構築に関与し、同時に「予言の自己成就」のメカニズムによって自己言及的に拘束される。健康言説によって自己(そして他者)の身体アイデンティティについてのモニタリングとリアクションが生じるのである。こうした再帰的な循環構造がさまざまな言説主体によって強化されており、その中でも広告をはじめとする各種メディア言説が重要な培養的役割を果たしているのではないか。以上が今回の作業の結果、推論された理論仮説である。

では、なぜヘルシズムを民俗宗教と定義するのか? それには少なくとも七つの理由が考えられる。[注21]

第一に、そもそもヘルシズムは「健康」という絶対神による一神教ではない。それは相対立する神々の闘争する多神教的世界である。広告において繰り返されるクリーシェはその教義の一部であり、教義の解釈(もちろん正統も異端もあり)なのである。ノードの中には、制度化された近代西洋医学に対する両義的態度がふくまれており、一方では医学言説の受け売りがあるかと思うと、他方では呪術的な要素も反医療・脱医療的言説もふくまれている。単純ではない。健康言説は一枚岩ではなく、大いなる矛盾をふくんだアンビバレントな複合体なのである。なお、この点に関しては、健康文化を構築するさまざまな「解釈の社会集団」(サイード)の存在と相互交渉をあきらかにすることが必要であろう。

第二に、ヘルシズムに満ちあふれた健康言説は、かなり匿名性の高いものである。その言説空間は不断に再創造されているが、その多くは再出情報であり出所不明の引用であり、その言説は責任主体から切り離されている。健康言説に作者はいないといえよう。それゆえ、ヘルシズムは創唱宗教ではなく、かぎりなく民俗宗教に近いのである。

第三に、ヘルシズムの信奉者(コミットメントの深い浅いはあるにせよ)は自らをニュートラルだと思っていること。あるいは「科学的」であると信じていること。これは、民俗宗教において、それを信仰している人たちが自分たちを無宗教だと思っていることときわめてよく似ている。この点については、本稿では軽く接触した程度であるが、西洋近代医学(生物医学)における医学言説および医療言説の精査が必要になるだろう。すでにストレス言説に関連して指摘しておいたが、制度化された医学において語られている言説が、社会的に構築されたものであるというのは、社会構築主義的医療社会学の常識である。

第四に、身体志向集団への正統的周辺参加がめざされていること。[注22]といっても、組織的な教団に入会するような参加ではない。体験談はゆるやかな入信のすすめであり、実践活動は商品の購入という消費行動に置き換えられている。対面的なクチコミのネットワークにおいて「病気自慢」「健康自慢」の形で健康クリーシェという教義を布教することが、せいぜいである。すでに見てきたように、とくに折込における健康関連広告は、その言及行為を促進するようにできている。体験談の実例はじつはそういう機能を果たしているのではないか。「健康法」という身体技法をふくむ実践への自己言及行為は、「予言の自己成就」のメカニズムによって、発話者自身を心情的に身体志向集団へ組み込んでいく。健康言説が重要なのは、言説の自己言及性による語り手の身体の構築である。

第五に、筆者がヘルシズムを無難に「民俗文化」と定義せず、あえて「民俗宗教」と定義するのは、それがあきらかに信仰と救済をふくむからである。これがなければたんなる「新たな民俗文化」と呼べばすむ話だ。一般に健康言説はあやしげなニュアンスをもつ。それは共感的に言説を理解しようとしないと理解できないということである。しかし、救済されるのは信じる者だけである。その点で健康言説はおそろしく信仰言説に似ている。折込広告における体験談と、入信動機を語る手記の酷似は重要である。[注23]それゆえ健康言説はアイデンティティに深くかかわるのである。このような言説を「ファディズム」であると心ある専門家が批判したところで、その批判言説もまた健康言説の一部となってしまう。そもそもファディズムはそのような科学的言説に対する抵抗なのである。このような「信じるか信じないか」という二項対立に陥ることこそヘルシズムそのものなのである。今日のメディアがまさにそれにはまっている。

第六に、保守的な生活習慣の復権が目指されていること。ヘルシズムは、個人に対しては道徳的に批判し指示するけれども、社会に対しては徹底して無批判である。復古的な社会秩序への従順な自発的服従者にのみ救済はあらわれるという構図。すでに指摘したように健康言説のジェンダー・バイアスはその典型である。伝統的な性イメージに仮託しながらも、じつはきわめて近代的なジェンダー観をもつのがその特徴になっている。ここで注意しておかなければならないのは、これがたんに伝統回帰ではなく、むしろ近代的な保守性であり、そこで言及される「伝統」も近代的に再創造されたものであるということだ。

第七に、ヘルシズムは一種の社会的治癒力をもちうるかもしれないということ。治癒するのは「信仰の力」であり、参加する身体志向集団の力である。健康言説は社会的治癒力を高める可能性をもつ。つまり「救済」はありえない話ではないということだ。そもそも社会的構築はたんに観念の構築ではない。それは身体の構築である。身体の本源的社会性・文化的非規定性を真剣に考えれば、それはむしろ当然の話である。

以上の諸点を考慮すると次のようにいえるというのが本研究の結論である。すなわち、健康言説によって構築されたヘルシズムは、民俗宗教の直接的な継承者、あるいは呼び覚まされ再創造された民俗宗教である。

■健康は言説である

ヘルシズムはさしあたり「ことばの世界」「言説の宇宙」である。しかし社会構築主義やその源泉のひとつである言語行為論やエスノメソドロジーなどが指摘するように、言説は指示する行為であるとともに事実行為である。「現実についての報告は単にその現実を鏡のように映し出すのではなく、記述の対象となったものをそもそも現実として創造したり構成したりする行為である」[注24]

私たちはこの観点から今後も共同言説空間としての広告の研究を続行したいと思う。この種の分析方法は、これまで理論的には「社会構築主義」と総称されてきたが、出所も応用分野もさまざまであった。最近は方法論的には「批判的言説分析」(critical discourse analysis)と総称されるようになっている。この視点からのアプローチはまだ全開しているとはいえない。[注25]

最後に確認しておこう。健康は言説である。言説としての健康、ではない。

[この章担当 野村一夫]

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(1) Anton C. Zijderveld, On Cliche`s : The Supersedure of Meaning by Function in Modernity, Routledge & Kegan Paul, 1979, p.10. A・C・ザイデルフェルト『クリーシェ——意味と機能の相剋』那須壽訳(筑摩書房、1986年)21ページ。

(2) Ibid.,p.16. 前掲訳書、35ページ。

(3) Ibid.,p.46-47. 前掲訳書、93-94ページ。

(4) Ibid.,p.56. 前掲訳書、111ページ。

(5) Ibid.,p.60. 前掲訳書、121ページ。

(6) この点については、ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)に関する議論を参照されたい。ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン——社会的判断力批判(I・II)』藤原書店、1990年。

(7) Vivien Burr, An Introduction to Social Constructionism, Routledge, London, 1995. ヴィヴィアン・バー『社会構築主義への招待——言説分析とは何か』田中一彦訳、川島書店、1997年。

(8) Sarah Nettleton, The Sociology of Health and Illness, Polity Press, Cambridge, 1995.

(9) 以下の議論は、Ibid., pp.〓による。

(10) Ibid., p.37.

(11) アーヴィング・ケネス・ゾラ「健康主義と人の能力を奪う医療化」イバン・イリイチ他『専門家時代の幻想』尾崎浩訳、新評論、1984年、53-92ページ。なお、現在ではこの論文をリライトしたものが流通しており、それはアンソロジーなどでアクセス可能である。Irving Kenneth Zola, "Medicine as an Institution of Social Control", Peter Conrad (ed.), The Sociology of Health and Illness: Critical Perspective, Fifth Edition, St. Martin's Press, New York, pp.404-414.

(12) この点については、本研究の前提的作業となった次の報告書を参照されたい。池田光穂・野村一夫・佐藤純一「病気と健康の日常的概念の構築主義的理解」『健康文化』No.4、財団法人明治生命厚生事業団、1998年、21-30ページ。

(13) 医薬品広告については、日本でもすでにいくつかの研究がなされている。松山圭子「医薬品広告にみる日米のくすり観」『社会薬学』第8巻1号、1989年、34-45ページ。松山圭子「大衆薬の新聞紙上広告に関する一考察——健康・病気・くすりのイメージを読み解く試み」『社会薬学』第9巻1号、1990年、54-62ページ。黒田浩一郎「大衆薬広告は何を語るか——医療の言説の政治学」内田隆三編『情報社会の分化2 イメージのなかの社会』東京大学出版会、1998年、109-145ページ。

(14) 折込広告については次の研究がある。坂上康博・橋本和孝・小池保夫『折込広告——歴史と役割』福島県折込広告社、1995年。折込広告の草の根性に注目した論考として、長尾浩二「ガンバレ草の根の広告媒体『折込広告』」須藤春夫編『広告——広告は市民とマスコミの敵か味方か』(21世紀のマスコミ03)大月書店、1997年。配送過程について述べたものとして、『折り込み配送物語——読宣 自動結束システム配送導入史』読宣、1996年。

(15) ハイパーテキストおよびノードの概念についてのわかりやすい解説として、ロバート・E・ホーン『ハイパーテキスト情報整理学——構造的コンテンツのすすめ』アデプト社松原光治監訳、日経BP出版センター、1991年(新装版1995年)。

(16) ただし「近代医学模倣言説」が「まがいもの」で「近代医学言説」が「真正」であるというわけではない。第二節で紹介しておいたように、社会構築主義的研究によれば「近代医学言説」が真正(絶対的真実)であるとはとうてい言えない。それは神話である。この点については、佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』世界思想社、1998年。

(17) 高橋久仁子『「食べもの情報」ウソ・ホント——氾濫する情報を正しく読み取る』講談社、1998年。高橋は近年の栄養学的に語られる「食べもの信仰」を1950年代アメリカで問題になった「フードファディズム」(food faddism)ということばで警告を発している。「フードファディズム」とは「食品や栄養が健康や病気に与える影響を過大に信じたり評価すること」(29ページ)である。

(18) ストレス学説自体への批判としては、A. Young, "The Discourse on Stress and the Reproduction of

Conventional Knowledge", Social Science and Medicine, 14B, 1980, pp.133-146. K. Pollock,"On the Nature of Social Stress: Production of Modern Mythology", Social Science and Medicine, 26, 1988, pp.381-392.

(19) ザイデルフェルト、前掲訳書、132ページ。

(20) 塩沢由典『市場の秩序学——反均衡から複雑系へ』ちくま学芸文庫、1998年、305-326ページ。

(21) 民俗宗教全般については、宮家準『増補日本宗教の構造』慶應通信、1980年。

(22) ジーン・レイブ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習——正統的周辺参加』佐伯胖訳、産業図書、1993年。

(23) ぬで島次郎『神の比較社会学』弘文堂、1987年。

(24) これを「相互反映性」(reflexivity)という。R・エマーソン、R・フレッツ、L・ショウ『方法としてのフィールドノート——現地取材から物語(ストーリー)作成まで』佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳、新曜社、1998年、437ページ。

(25) Norman Fairclogh and Ruth Wodak, "Critical Discourse Analysis", Teun A. van Dijk(ed.), Discourse as Social Interaction, Sage, London, 1997, pp.258-284.

表1(省略)

表2 折込広告における健康クリーシェの諸類型

健康クリーシェの類型 ノード

■近代医学模倣言説系

(1)栄養学的言説

(2)検査値言説

(3)医学的権威主義

(4)ストレス言説

■伝統回帰・減算主義的言説系

(5)非西洋医療権威主義

(6)伝統主義

(7)自然治癒力主義

(8)薬の忌避・薬害への恐怖

(9)無添加主義

(10)素材よければ主義

■道徳言説系

(11)継続は力なり言説

(12)良薬口に苦し言説

(13)リスク放置非難言説

(14)嗜癖不道徳説

(15)死の恐怖

(16)性的健康

(17)フェティシズム的道徳

■救済言説系

(18)まだ間に合う言説

(19)万病解決言説

(20)お手軽主義

(21)遍歴言説

(22)生まれ変わり言説

■身体アイデンティティ言説系

(23)体質という個性

(24)恋愛共同体への誘惑

■承認言説系

(25)半信半疑言説

(26)他者の承認

(27)マスコミで話題言説

■汎用言説系

(28)健康の汎用性

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