着地せよ、無翼の大人たち(1)
●はじめに
編集部から「大人とは何か」という問題を提案されたとき、自分にはとても解けない難問だと直感した。なにより私自身が一人前の大人と言えるのかどうか心もとなかったからだ。あいさつも上手でないし、公式な場で卒なくふるまうなんてこともうまくできないし、大人のシャレたお店に顔パスで出入りするようなこともいっさいないと(悲しいことに)断言できる。本ばかり読んできた頭でっかちの、なんとも情けない大人なのである。
しかし、今どき、あらためて自分が大人かどうかを問われて、疑いなくイエスと答えられる人なんてそんなにいないのではないかと思い直してみたのである。「あなた、大人ですか」と問われて「は、はい、一応そんなとこです」と答えるのが相場ではないかなと思う。そうであるなら、私もそんな自信なげな大人の一人として、読者とともに何か考えるべきことがあるかもしれない。
書店をのぞいてみると、世間では「大人になりきれない若者」の話がひとつのジャンルになっている。見かけは大人論だが、じっさいに読んでみると、みんな若者論なのである。そして、その「若者」と名指しされている人たちの年齢がそろそろ四〇歳に届くところにまで射程が延びている。じっさい、若者気分の三〇代もざらである。四〇代でも大人意識の薄い人は多い。
じつは「大人になりきれていない大人」「大人らしくない大人」が今は普通のことになっているのではないか。そう考えると、問題なのは、「大人になれない若者」というより、むしろ大人の概念が変わってきていると考えたほうがいいのではないか。そして「大人が悩む大人のあり方」のほうこそ、今や問題なのではないか。となると、どうやら発想を転換した方がよさそうである。
そこで、問題を「今どきの大人とはどうあるべきか」と設定することにした。この二一世紀において「大人らしく生きる」というのは、いったいどのようなことなのか。
言わば「新しい大人の思想」をめざしたいわけだが、その前に、現実に内在する新しい芽を見つけて、「新しい大人の条件」の可能性を問うことも必要だろう。しかし、もともと私に結論めいたものがあるわけではない。本書では、試行錯誤しながら、そんなことを考えていきたい。
そのさいの私の立ち位置は、第一に、世代的なものにならざるをえない。いわゆる団塊世代と新人類世代にはさまれた、比較的元気のないシラケ世代(一九五〇年代後半生まれで、当時は無気力・無関心・無感動の三無世代と言われた)であるということ。そろそろ五〇歳を迎えるシラケ世代は、ただいま中年真っ盛りである。
第二に、職業的に言えば社会学者であること。
私は研究文脈では「構築主義」という立場に立つので、実証データをふりかざして語るつもりはないが、社会学者の私が何かを言えるとすれば、何らかの知的態度を理論的かつ反省的に捉え返してみるということだろう。
しかし、人によっては社会学者の仕事を逸脱していると思われることもあるだろう。むしろ社会批評に属する仕事なのかもしれないが、社会学には「反省社会学」という考え方もあって、他人を客観的に観察するのではなく、自分自身を自己反省することで、それなりの知見を得ようとするやり方もある。今回は、それに近いやり方で行くことになるだろう。言ってみれば、私自身が研究対象である。
そして社会学者の性癖として、社会や文化との関わりを重視することになるだろう。ただし、関わりと言っても二つの側面があって、大人というものが社会や文化に規定されるという側面があるとともに、逆に大人というものが社会や文化を創造していくという側面もある。両方を見据えることが社会学者の習い性なのである。
そして第三には、私が(残念ながら、と言うか、幸か不幸か)男であること。こればかりはいかんともしがたい。
一応、ジェンダー論なども学んできたので、男であることの限界に無自覚ではあり得ないが、どうしても男中心に語らざるを得ない場面が出てくることと思う。それに、日ごろの勉強不足がたたって、私はあまり女性の文化的世界を知らないので、事例としても男性文化に即して語ってしまうところがあるかもしれない。そうしたジェンダーバイアスがどうしてもつきまとうことだろう。しかし、私は本書で中年男性論をぶちあげるつもりはさらさらない。大人にこだわることは、とりもなおさず男か女かを問う土俵自体を問題化し相対化することだからだ。そういう議論の水準があると私は考えている。
というわけで、この立ち位置から見えてくるものをこの段階で作業仮説としてまとめてみると(あるいは予感と言ってもいいのだが)、それは「大人とはある種の知的態度である」というものである。この仮説には、私の立ち位置による限界が投影されているのは明らかだが、意外にこうした本はないようなので、当事者のひとりとして一足先にささやかな一石を投じておきたいと思う。
本書は、大人であると胸を張って言えない多くの大人のために、そのような者の一人である著者が手当り次第に思考を走らせた迷いの軌跡である。しばし、おつきあいいただければ幸いである。
第一章 「大人になれない」という合い言葉
一 あふれる「大人になれない」論
■何を問う成人の日
成人の日が近づくとメディアは二〇歳の若者に焦点を当てる。そして若者たちの未熟さを嘆いてみせる。成人式に騒ぐ若者がいれば、かっこうの非難対象になる。「近ごろの若者は」という、お決まりの嘆きがメディアにあふれる。成人の日は、新成人を祝う日というよりは、新成人の未熟さを嘆く日であるかのようだ。
騒いでいるのは、たいていヤンキー系の集団で、大学生たちとは違って彼らは地元に密着しており、こうした公式な行事には縁がなく、しかもかつての中学校時代の同級生たちがそこにそろいぶみしているのであるから、何か目立つことをしなければならないと考えるのだろう(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、二〇〇五年)。こうしたごく一部の人たちのせいで、あれこれ非難される一般の新成人は気の毒だと思う。ごく一部の突出した現象を一般化して語るのはメディアの悪い癖である。
しかし、私は思うのだ。今どきの二十歳が未熟なのはあたりまえと言えばあたりまえのことだ。日常的に大学で学生たちとつきあっていると、その子どもっぽさは一概に非難されるべきものではなく、ときには、むしろ美徳ではないかとさえ思うこともある。若さと幼さとは違うにしても、その輝きは否定されるべきものではないだろう。
成人式のあり方が問われているが、それも否定するつもりはない。二〇歳の七五三だと思えばいい。あるいは中学の合同同窓会である。
二〇歳の七五三だとすれば、両親や親類が気軽に参加して、ともに喜び合えるようにすればいい。最近の大学の卒業式のように。ちなみに最近は入学式や卒業式に来る親や親戚がどんどん多くなっていて、場所の問題で大学は悩んでいたりする。中学の合同同窓会だとすれば、あらかじめそういう仕掛けを工夫するべきだと思う。
それはともかくとして、いくら幼いからと言っても、法律的には成人扱いなのだから、二〇歳はその節目にはなるのである。家族のライフサイクルの中でもひとつの大きな節目にはなるだろう。
そんなことより、私が成人の日の周辺時期に腹立たしく思うのは、メディアがいわゆる「未熟な若者」論に終始して、肝心な「大人とは何か」という問いに向かおうとしないことなのである。
そもそも、中年真っ盛りの私でさえ、とても一人前の大人として自信が持てない時代である。若者たちの未熟さを責める前に、大人であろうとする人たちが今どきの「新しい大人」のあり方というものを考えるべきではないかと思う。
なぜ「新たな大人像を模索しよう」と言えないのか。成人の日に問われているのは、若者たちではなく、むしろ大人たちのほうなのだ。
■いわゆる大人論の実体は「未熟な若者」論である
今どきの大人とはどういう存在なのか。あるいは、どういう存在であるべきなのか。これがこれから考えていきたい問題である。
私自身は、一人前の大人と胸を張って言えるほどの人間ではないので、あらかじめ答を用意しているわけではない。
しかし、中年になって病気をして以来、いろいろ人生について考えるようになった。専門書から離れて、古典や文学作品や人生論を読むようになった。人生論なんて縁がないと長年思ってきただけに、自分でも意外な成り行きである。作家や思想家や学者の伝記にも興味を持つようになった。もちろん、こういうものに結論なんてないので、このまま一生、人生について試行錯誤することになるのだろうと思っている。本書の作業を通じて、現時点でのそれなりの方向性がつかめればいいのだが。
さて、大人論というジャンルがあるわけではない。仕方がないので、とりあえずタイトルに「大人」とついたもので、大人について論じたらしい本や論文を片っ端から集めて読んでみた。と言っても、数はそんなに多くない。子どもや若者や老人や女性や日本人といったカテゴリーについて主題的に論じた本はとても多いのに、こと「大人」となると、このさびしさはどうだ。
しかも、その多くが内容的には若者論なのである。そのタイトルには「大人になれない」というフレーズがお決まりのようについている。こういうものは必ずしも著者の意向ではなく、版元の意向や編集部の裁量によって名付けられているのだとは思うものの、内容を見ると、やはり大人論ではなく、どれも「大人になれない」未熟な若者の話、若者論なのである。
若者については、このさい、どうでもいいのだ。私が読みたいのは大人論なのだ。しかし、それに正面から応えてくれるような本となると、ほとんど見当たらない。社会学者の私としては、かっちりした研究書があると頼りがいがあるのだが、これがまた、絶望的に少ない。困った。
社会心理学系ではライフサイクル論というのがあって、ダニエル・レビンソンの『ライフサイクルの心理学』(講談社学術文庫、一九九二年)が翻訳されている。しかし、これは一九七〇年代アメリカの中年男性の研究である。参考にはなるが、準拠するには遠い。
これだったら、同じ個人史に焦点を当てたインタビューに基づく研究であるロバート・N・ベラーたちの『心の習慣』(みすず書房、一九九一年)のほうが私にはぴったりくる。しかし大人論と言えるかどうかは微妙である。使うとなると、私なりに位置づけ直す必要があるだろう。
大人というのは、あまりに大きなカテゴリーだから、既成の枠組みでは、かえって研究しにくいということなのか。この点についてはレビンソンも嘆いていた。たとえば昨今のジェンダー研究の豊富さにくらべると、その質量の差は歴然である。若者論や老人論のほうがはるかに多い。
そういうわけで、私にとって大人論への「導きの糸」になりそうなものは見つからなかった。これは前途多難と言うほかない。まったく自前で考えていくしかないというのは想定外だ。
それに対して、大人論の皮をかぶった「大人になれない若者」論はけっこうある。このテーマが好んで語られているのはなぜなのか。気にかかるところである。
じっさい、私たちの日常会話においても、マスコミでの話題としても、この種のテーマは定番中の定番である。ここは急がば回れで、この問題を手かがりに考えていけば、なぜ大人論が正面から語られないのかについて裏側から透けて見えてくるかもしれない。ここから考えを始めてみよう。
■「大人になれない」男と女
ためしに大宅文庫のデータベースで「大人になれない」を使った雑誌記事タイトルを検索してみた。四三件でてきたが、パターンは決まっている。
第一のパターンは比喩として使われる場合である。「大人になれない日本外交」「大人になれない国日本」「“大人になれない”私学の雄」「地球サミットで嘲笑された『大人になれない日本人』」──これらの場合、一人前の自立した大人のイメージが想定されて、それに満たない国や組織のありようが問われている。
この種の大人イメージを使った著作としては、福田和也氏の『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』シリーズ全四冊(ハルキ文庫、二〇〇〇年)があるが、ここでは「幼稚」に対して「大人」が使われている。福田氏は一冊目の本のエピローグで「大人であるとはどういうことか」について次のように語っている。
「大人とは、高い価値を、人に押しつけることができる者のことです。
そして、他者との価値観の相克に耐え、研鑽できる人。
人に価値観を押しつけることからは、当然のことながら、多くの責任が生じます。それが誤っていたならば、当然指弾され、追及されることは避けられない。
あるいは、自分の価値観を高く掲げて衝突をきたせば、面倒な議論や折衝をよぎなくされる。
今の、善良で優しい、思いやりのある日本人は、このような責任や軋轢から逃れることを何よりも大事に思っています。
すべてにものわかりがよく、相手の立場を尊重し、自説を主張せずに人あたりがよいのは、彼らが成熟しているからでも、寛容だからでもありません。
ただただ、そのような面倒から逃れたいだけなのです。」
大人という言葉のひとつの典型的な使い方である。こういうイメージそのものについては、機会を改めて論じてみたいが、世代概念としての大人ではない。責任主体としてのまっとうさを意味しているようだ。
これに対して、よくあるのが世代概念としての大人になれないパターンである。「いつまでも大人になれないおこちゃまな女子」「大人になれない子供」「大人になれない『困ったちゃん』社員」「大人になれないダメ男」「激増!大人になれない子どもたち、親になれない大人たち」「大人になれない“子供男”の夫を持つ妻たちが反乱を始めている」「大人になれない30代ボーイズ さみしい男たちが結婚を夢見る」「大人になれない子供たちの奇妙なコミューン」「大人になれない世代の母娘関係」「大人になれない“30男”」「大人になれない若者 成人式が『七五三』になった」などなど。
ちなみに、すでに一九九〇年の段階ですでに女性雑誌『MORE』で「MORE井戸端会議 大人になれない男たち」という座談がある。かと思うと同じ年に「大人になれない日本女性 在日外国人インタビュー」というのもあり、女から見ると「大人になれない男」が問題になり、外国人から見ると日本女性も「大人になれない女」ということになるようだ。
印象としては男のほうが問題になることがやや多いようではあるが、こうして並べて見ると、「大人になれない」とされているのは男も女もたいした差はない。そして、対象の年齢の幅も広い。三〇代や親世代の「大人になれない」様子が批判的に語られている。こういう言説の特徴は何であろうか。その背後には何があるのか。節を改めて考えてみよう。
二 成熟した大人という幻想
■「大人になれない」論の傾向を問う
総じて、こうした「大人になれない」論には、いくつかの傾向があるように思える。
第一に、若者であることをいつまでも卒業できないでいることに対して道徳的に非難するということである。多くの場合、若者や「いい年をした大人」の心理的な未熟に起因すると想定されている。そして論者は未熟さに対して非寛容である。ときには容赦ない。
この非難傾向に道徳的な臭みがあるのは、いかにも説教臭いからである。説教というものは、通常、悪意があってのことではない。むしろ逆である。「しっかりせいよ」というメッセージが前提にある。
だから、これらは、若者を非難したいから非難しているというのではなさそうだ。ここにあるのはパターナリズムである。
パターナリズムというのは、父親が子どものことを保護してあげることをいう。そのかわり父親の言うことを子どもはきかなければならない。こういう関係のことである。医療や福祉の現場で親切に処置をしてくれるのも、一種のパターナリズムである。教育的配慮もそういうところがある。
若者論の場合は、責任ある大人が未熟な若者(若者とは言えない年齢の人も含めて)のことを考えてあげなければならないというパターナリズムである。考える意欲も気力もなさそうだし、自分を反省するような人たちでなさそうだから、かわりに大人が考えてあげようというわけである。
そういう大人の考えるところによると、「大人になれない」「大人になろうとしない」のは、ひとえに子ども文化・若者文化に起因する。若者文化が成熟拒否させている。それが何かを研究しなければならない。
だから大人たちは若者文化を理解しなければならないということになる。細かく細分化し部族化してしまった若者文化を具体的に理解することは、もはや不可能である。自分の子どもが凝っているものを子どもから教わって、わかったふりをするのが関の山であろう。それゆえ、メディアの人たちや評論家は、ていねいにリサーチして若者の生態を語り続けるのである。若者論の隆盛は、こういうところに動因をもっているのかもしれない。
第二に、とくに批判的に語られているのは、「大人になれない」人間の年齢の上限がしだいに上がってきているということである。
しばしば批判される成人式の場合は、すでに「大人らしく」ないというよりは「大人しく」ないという程度のことであって、もうだれも大人らしさを二〇歳の若者には期待しなくなった。
最近問題にされているのは、そこから最大二〇歳近くも幅のある三〇代である。とくに、おたく系の若者が三〇代に突入し、アニメ世代やマンガ世代はすでに中年に達している。中年オヤジがマンガを読むこと自体は、もう非難されなくなっているが、おたく系はまだ(?)ネガティブな口調で語られる。
第三に、これは放置できない具体的な社会問題になりつつあるという認識がある。なるほど若者はいつも社会問題であった。大人社会側の問題は指摘されるが、問題は若者側にあるとされる。「社会から大人らしい大人がいなくなる」「社会の幼児化」が懸念されている。「未熟者の天下」が始まらんとしているかのような危機感がある。
■成熟の幻想
「大人になれない」論に対して疑問に思うのは、大人とはどういう存在なのかがとても曖昧だということである。何かよいものであるかのような大人概念である。
このようなイメージを一言に集約すれば、それは「成熟」ということになろう。成人の日あたりの論調も「未熟な若者」に対して「成熟した大人」が対置される。つまり、若者の未熟さを批判するための準拠点として「成熟した大人」が反射的に想定されるのである。「成熟した大人」という到達点があって、それに到達できない若者の現実を「問題」として構築する。若者の未熟性がことさらに語られ、社会問題化される。若者は語る主体としてではなく語られる対象として問題化されるのだ。
たしかに若者は未熟である。完成されていないという意味では、こちらはたしかなことだ。しかし、だからと言って大人が必ず成熟しているとは言えないのではないか。それは若者を問題化するときにだけ想定されている反実仮想ではないのか。これが私の最初の疑問である。
今や、大人を「成熟」という言葉で語れない現実が存在しているのではないか。なるほどかつては「成熟した大人」は存在したかもしれない。存在したかもしれないが、それが大人のすべてであったとはとうてい思えない。それ以上に、未熟な大人たちがたくさんいたはずである。「成熟した大人」というのは、あくまでもひとつの理想像であって、存在したとしても現実の一部にすぎない。
それもこれも「成熟の幻想」というものがあるからである。私はここに問題があると思うのだ。
■オジサン・オバサン・オヤジ・オバタリアン
一方で「大人になれない」というまなざしは、年齢的に大人である人たちにもしばしば向けられる。より下の世代からの突き上げである。この場合の「大人」は一定の品性がある人を指し、「オヤジ」「オバタリアン」などは品性がなくて、とても正視に耐えない人びとを指している。
たとえば「オヤジ」言説を検討してみよう。週刊誌の『サンデー毎日』には池野佐知子氏による「オヤジ処方箋」というコラムがあって、二〇代や三〇代前半の女性社員から見たオヤジ像が具体的に語られている。
大宅文庫のデータベースの要約を借りると、たとえばこのようなオヤジたち。「『ごめんなさい』を言わないオヤジ」「自らをオヤジと自覚していないオヤジ」「指にツバをつけ書類をめくるオヤジ」「話題が希薄なオヤジ」「丸文字・汚い文字・誤字だらけの上司たち」「人の話を最後まで聞けないオジサン」「精神論に走る前時代的オヤジ」「酒の席での無礼講オヤジ」「肉体的欠陥、年齢、結婚・恋人などを話題にするオヤジ」「自分の扱いやすいOLを所有物のように扱うオヤジたち」などなど。
若い女性社員も日々、上司のオヤジたちに苦労しているようだが、ここで語られているのも、じつは「未熟な大人」像である。つまり若い世代にも成熟幻想はあって、目の前の上司がそれなりに「成熟した大人」であってほしいと思っているわけである。そこの地点から、目の前の上司がそうでないオヤジであることを非難しているのだ。
オヤジやオバサンがいつから蔑称になったのか、今となっては気になるところだが、このような言説自体は、私たちが若いころにはすでにあった。だから、私たちが若いときは「そんな大人になんか、なりたくない」と思ったものである。
■若者がもつ大人のイメージ
私が若いころの「大人」のイメージは、センスがない・古くさい・権威的である・強引である・知的でない・反省がない・・・といったものだったと思う。
じっさいに自分が中年になってみると、これは必ずしもあたっていないとも思うとともに、それなりの理由もあったのだなあと感じるのである。というのは、次のように考えられるからだ。
大人が「センスがない」「古くさい」と映るのは、最先端の流行に敏感な若者から見れば当然のように見える。けれども、見方を変えると、大人はすでに自分のスタイルを選択したあとなので、時代の表層から取り残されているように見えるだけとも言える。
逆に、若者は自分のスタイルを決定していないので、メディアが仕掛ける流行にかんたんに乗せられているだけとも言えるのだが、若者をターゲットに方向付けられたメディア仕掛けの社会の中では、若者の側の方が優勢意見に見える。だから若者は自分たちのほうが大人より先端的であり主流であると信じ込んで疑わないのだ。
大人が「権威的である」「強引である」というのも、世代差がそのまま社会的地位の落差として感じられるからである。ヒエラルキーをもつ組織構造や家族構造の権力性が、上に位置する者への反発として意識されるということだろう。
最後に「知的でない」「反省がない」という大人のイメージは、最近は多少変化しているかもしれない。私たちの世代にとって親世代は高い学歴はなく、たいていは庶民的知の世界に住んでいた。知的反省とは無縁の世界の住人だった。だから「知的でない」と決めつけることができたのだろう。
しかし今は違う。親世代はすでに高学歴であることが多くなり、職業社会にあっても、ルーティーンに埋没できるほど安閑とした時代ではなくなっている。大人も勉強し続けていなければ生き残れない。
けれども、それでもアクティブな大人に対して、パッシブにならざるをえないナイーブな若者は、自分をより反省的であると感じるものである。受け身の側の方が観照的立場に立ちやすいので、全体を見渡しやすい(あるいは、全体が見えていると思いやすい)からである。
このように、大人に対して若者が持つイメージは、大人そのものの属性というよりは、世代間のギャップ自体が心理的距離化をもたらしているその産物であり、相対的な社会的立場の落差が反映した関係的な現象と考えた方がよさそうである。
その意味では、ここで述べたシラケ世代の大人のイメージは、大なり小なり若者たちに受け継がれているものだと思う。今後もそう変わることはないだろう。
ともあれ、私たちシラケ世代は、そんな大人にはなりたくなかった。当時は、あえて若者らしさを前面に出し続けることが、ひとつの抵抗だったような気がする。当時の大人の側からすれば、若者は素直に言うことを聞かず、反抗ばかりして粋がっている存在に見えたことだろう。
しかし、今の若者から見れば、私たちもそんな大人と見られているわけだ。それにしても、かつてマイナスイメージをもっていた者に自らがなるという経験は、それなりの屈折をもたらしている。たとえば、シラケ世代のもつ、ある種の優柔不断さ(そこには配慮的な優しさと「権威的に決断しない」という属性が混合している)は、ここに起因する。それがまた「未熟な大人」と感じられてしまう原因になるのであるが。
■「成熟の幻想」が再生産する現実
言説は権力である。いきなりこんなことを言うのも何だが、要するに、言葉が現実をつくるということがある。ああだこうだと言っているうちに、そのようにしか現実が見えなくなってしまうということがあるものだ。あるいは、ほんとうにそんなようになってしまうということもある。
社会学で「予言の自己成就」というのだが、人びとが自分たちの共有している思い込みに基づいて行為することによって、その思い込みが現実のものとなって自己成就するのである。
たとえばバブル期には「地価は必ず上がる」と信じられていた。土地を売るほうも買うほうもそれを信じていたから、結果的に地価は上がりつづけた。人びとが信じるのをやめたとき、それは現実ではなくなる。
また、たとえば「あの信用金庫は危ない」といううわさを人びとが信じて一斉に預金を降ろしてしまったら、ほんとうにその信用金庫は危機に直面してしまう。
社会現象には、このようなしばしば悲劇的な循環運動がある。このあたりが自然現象とは根本的に異なるところだ。
人間だって、そういうところがある。ある政治家が「陰の実力者」であるとの評判が広まることによって、さまざまな人がその人物を頼りにし、実力者として遇することによって、その人物はますます政治的な実力者となってゆく。カリスマの誕生というのも、案外そういうメカニズムなのである。
このように、私たちは「原因と結果」という単純な因果論でものごとを理解しがちであるが、原因と結果というものは必ずしも明確に分けられるものではない。じっさいには結果にすぎないことを原因と錯誤してしまっていることも多いのである。
これまで取り上げてきた「大人になれない」論も、そのような性質を持っているように思う。というのは、「大人になれない」論が連呼されていると、若者はいつまでも大人扱いされなくなって、「大人になれない」現実が再生産される可能性があるからだ。
■三つの問題
「大人になれない」論には三つの問題があると思う。
第一に、実態とあわない「未熟──成熟」の軸が固定化されていく。これは「成熟の幻想」を生む。それが繰り返し語られることによって、若者はますます未熟な人間として語られ、大人はますます成熟した人間と想定されてしまう。
ほんとうに成熟した人間なんて、そういるものではないから、この議論をしていると、対象がだんだん広がってくる。最初は「若者が未熟だ」と言っていたものが、「最近は三〇代も未熟だ」「近ごろの中年もだらしないよ」というぐあいに「大人になれない」対象が広がってくる。こうなってしまうのは「未熟──成熟」の軸で語ること自体がまちがっているからではないだろうか。
第二に、その結果として、実態はそうでもないのに、若者と大人の距離がものすごく大きく感じられてくることがある。大人への敷居を高くしてしまうために、あたかも深い溝があるかのように感じさせてしまう。大人はそんなに完璧ではないのに、大人が若者にとって遠い目標になってしまう。目標が遠いと、みんなあきらめてしまうではないか。
「大人になれない」というフレーズを浴びせられる若者たちは、たまったものではない。いつも未熟者呼ばわりされる。その一方で、大人社会が壁になって立ちはだかる。リアルな壁もあるにはあるが、それに加えて言葉が壁をつくってしまっているのだ。いつのまにか大人が道徳的権威めいたものになってしまう。すると、当然それに対する反発も生じる。「大人になんかならない」と思う若者が出てくるのも当然の流れだと思う。
第三に、若者の変化ばかりがクローズアップされて、大人が変わりつつあることが隠されてしまうということ。
若者の変化については、今ではよく知られている一連の「パラサイトシングル」論や「若者が弱者になる」論などで指摘されている。それはその通りなのだが、大人サイドが安定したリファレンスになるので、大人の側の変化がクローズアップされてこない。当然「成熟」側に寄せられてしまった大人のほうは自明視されてしまうのである。しかし、それはちがうのではないか。
そもそもこういう語り口には、若者を排除して大人社会を固める効果がある。それを語っている大人たちが「そうだね、ほんとだねえ」と相づちを打つことで仲間意識が成立するというわけだ。
しかし、大人社会はそれほど安定しているわけではない。あとで述べるように、大人としてふるまっている人たちも、それほど自信があって大人しているわけではない。
そんな脆弱な大人社会であるからこそ、若者を人身御供にして外部化し、それによって内部を凝集させようとする。というか、大人社会という幻想を維持しようとしているだけとも言える。居直りの再生産である。
世代がうしろに移るにしたがって、自己批評的に移行しているものの(この自己批評には意味がある)、問題を大人側にシフトすることが必要だと思う。今こそ、若者のネガではなくポジとして大人を語ることが必要なのだ。
三 大人はどこにいるのか
■反若者としての大人
というわけで、若者でも熟年でもない私は、大人らしさというものをどのように自覚すればよいのか、戸惑うばかりなのである。大人は残余概念になってしまったかのようだ。若者と熟年にはさまれた、境界の不明瞭な世代領域になってしまった。
じっさい、若者優先のメディア環境や消費市場は、もううんざりだという気がしないでもない。私たちの世代はもう包摂されはしないだろう。私たちは長らく「反大人としての若者」だったが、それに対して「反若者としての大人」になっている自分たちを発見するのである。もちろん若者の特権を享受できる世代ではないということを自覚しなければならないが、同時に、大人としての態度や生活行動を吟味していかなければならないとも感じる。
それと同時に、成熟概念もこのさい捨てたい。そもそも成熟なんかしないのだ。今どきの新しい大人は「未熟年」としか呼びようのない人たちである。おそらく、いつまでたっても「未熟年」だ。「成熟の幻想」だけが残っていて、現実とずれている。こういう状態をイデオロギーと呼ぶ。「成熟のイデオロギー」だ。いつまでも、それに引きづられていることはない。新しい大人には新しい理念が対応すべきであって、それを模索していけばいいのだ。その意味では実態に即した「新しい大人」像をポジティブに描くことが必要なのだと思う。
■新しい大人の実感
そもそも大人はどこにいるのかと問いたくなる。
しかし答はかんたんだ。大人はどこにいるかと言えば、若者から出てくるのである。「かつての若者」が「今の大人」なのである。世代体験はそれゆえ重要なのである。
とすれば、「大人になれない」のではなく、そのつど新しい世代に見合う「新しい大人になる」のである。つまり、旧世代の大人像とは異なる、新世代らしい大人になっていくのである。このことがしっかり認識されていない。だから、大人のあるべき論が必要ならば、新しい世代のための大人のあるべき論が必要なのである。
自分が新しい大人ではないか(あるいは、古びた若者ではないか)という実感は、最近さまざまなところで語られ始めている。
四〇代前半の歌人・穂村弘氏は最近のエッセイ集のあとがきで次のように書いている。
「今はまだ人生のリハーサルだ。
本番じゃない。
そう思うことで、私は「今」のみじめさに耐えていた。
これはほんの下書きなんだ。
いつか本番が始まる。
そうしたら物凄い鮮やかな色を塗ってやる。
塗って塗って塗りまくる。
でも、本番っていつ始まるんだ?
わからないまま、下書き、下書き、リハーサルと思い続けて数十年が経った。」(穂村弘『本当はちがうんだ日記』集英社、二〇〇五年)
彼は会社の総務課長さんでもあるらしいから、世間の一通りのことは心得ているはずだが、その人にして、こういう実感なのである。ここで「本番」とは「大人」のことであろう。「大人のステージ」というところだろうか。だとすれば、それは私自身の実感とも近い。
娘が芥川賞を受賞して父親として注目を浴びた法政大学教授の金原瑞人氏は、『大人になれないまま成熟するために──前略。「ぼく」としか言えないオジさんたちへ』(洋泉社、二〇〇四年)の中で、おそらく同じ事態について語っている。
金原氏によると、今では、若者と大人との間にあったはずの川が干上がってしまって、地続きになっている。その結果、自分が大人か若者かわからない人が増えていて、自分自身も「大人になれないのなら、せめて大人を装うことはせずに、『子ども大人』のままでやっていけばいいと──。」そういう身体的な実感をもっているという。そして次のように述べている。
「ぼくには、一人称代名詞として『ぼく』以外は、上手に使えません。『子ども大人』でいるしかないという実感が、そういうところにも、端的に表れているような気がする。」
「たとえばぼくのような、社会的には大人の顔をして暮らしているけれど、実はひそかに自分は大人じゃないぞ、もしかしたら若者なんじゃないかと考えているような人間が大勢いるわけです。『若年寄』という言葉があるけれど、それに倣って言えば、『老少年少女』とでも言いたくなるような人たちがあふれている。」
私自身は「成熟しないまま大人になる」ほうが現実的ではないかと考えるので、金原氏とは路線が違うけれども、現状認識としてはほとんど同じである。
このような実感をもつ「新しい大人」たちをとりあえず「未熟年」と呼んでおこう。カタカナにして「オトナ」でもよい。このような大人のための大人論を以下の諸章で考えていこう。
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