着地せよ、無翼の大人たち(3)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第三章 大人問題としての過去の呪縛
一 大人問題とは何か
■社会化図式の崩壊と大人問題
若者時代が長引いたとは言うものの、人はいつかは大人になるものだと、人びとは信じてきた。子どもから若者、そしていつかは大人。
心理学や社会学だって、「社会化」という概念によって、人間の成長の過程を捉えてきた。それは、既成の社会が用意したプログラムにはまっていくことを意味した。
しかし、そのような社会化図式で表現されるような成長の物語は、そもそもフィクションだったのではないかと思うのである。たしかに歳は着実にとっていく。しかし、現代人の人生の実態は、予定調和的な社会化という成長物語というよりも、大なり小なり波瀾万丈の物語になっているのではないかと思うのである。
現代において大人になるということは、既存の社会秩序に適合すればよいという社会化のプロセスではなく、新しい局面の創造になっているところが問題なのだ。つまり、すでにあるパターンをなぞればオーケーというのではなく、そのつどパターン作りをしなければならないというツラさがある。
それゆえ「大人になれない」論に典型的に見られる若者論パラダイムを捨てることが必要なのだ。若者論パラダイムは、大人局面を適応目標に設定して、大人局面のダイナミズムを平板化してしまう。
そうではなくて、現代の新しい大人は流動的なプロセスの中で着地点をいつも模索しているようなことになっている。前例は少なく、しかも、けっして、ある既定の完成地点に向かってはいないのだ。ここに現代の大人局面の困難がある。
ということは、私たちは、加齢に応じて自動的に子どもや若者の殻を脱ぎ捨てるわけではないということだ。いつまでも引きずる可能性が高いのだ。
その前提で考えると、現代の新しい大人は、かなり意識的に、若い時代に身体の奥にささったままのさまざまな楔と向き合わなければならない。そして現に向き合っているのである。
ところが、これがなかなか厄介な代物なのだ。私たちは過去の呪縛からなかなか自由になれない。自由になれないから、悩ましい。これをここでは「大人問題」と呼ぶことにしよう。
本章では、その典型的なものとして若者意識・教育・ルサンチマンを取り上げ、それらの呪縛からの自由について考えてみたい。
二 若者意識の呪縛からの自由
■若者意識の呪縛
さて、私たち未熟年の大人の心理には、いつまでも若者気分でいたいとの気持ちがある。なにせ、モラトリアム世代と呼ばれた、あの間延びした長い若者時代を送ってきた世代である。若者意識が骨の髄までこびりついている。言わば「若者漬け」である。
若者漬けされた大人がみっともないと思うかどうかは美意識の問題だ。けれども、しばしば若い世代はそれをみっともないものと認識しているものである。また、上の世代は「いい年をしてガキっぽい」と思うだろう。若々しい感覚と「若者漬け」とは違う。それは、すっぱくなった古漬けに似ている。
多くの未熟年は、それでいいと思っている。自分を若者の側に位置づけているほうが何かと気楽であり、責任あるふるまいを含む大人役割はあえて火中の栗を拾うようなところがある。どっちが楽かは歴然としている。
しかし、私はこれを「呪縛」だと考える。若者意識というのは、甘えを含んでいる。どこかパターナリズムを期待するような甘えである。この種の甘えは、若者についてはある程度期待できるものであっても、大人にとっては根拠のない依存心である。この甘えが大人であることの妨げとなりはしないか。
■お客さま意識と野党的立場
「成熟の幻想」を判断停止にして見れば、現実の大人は若者と連続体である。若者概念が大人概念を浸食していると言ってもいい。この事態は、大人が文化的主役になっていないことの裏返しではないかと思う。
第一に、消費社会の習い性がある。私たちは「お客さま意識」にさらされつづけてきた。周りの寛大さを期待し、自分に対して配慮を期待する甘えである。そもそも消費社会のパターナリズムに慣れてしまっているのだ。
私たち未熟年は、消費によって自己形成をしてきた最初の世代である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医の小此木啓吾氏は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。"本当の自分"を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」(小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中公文庫、一九八一年)
私たちは、若いときから、こうしたお客さま気分を基調にして自己形成して大人になった。このようなパターナリズムに慣れてしまった受動性が若者意識の核になっている。
第二に、上の世代への反発が若者漬けの原因になっていることも多いのではないか。私の属するシラケ世代では、直前の団塊世代や親世代に対して批判的だった。団塊世代も先行世代に対して相当批判的だった。破壊的と言ってもよいくらいである。そういう批判的な姿勢は、自分たちを新世代側に置きたがる性癖になって残存するのである。
しかし、いつまでも若い側(野党的立場)に身を置こうとする姿勢は、今となっては奇妙なものである。もう六〇年代でも七〇年代でもないのだから。とりわけ批判者というものは、後から来た人たちにとってはワガママな人びとに見えるものである。いっそう批判的に見たくなるものだ。
若者意識の呪縛には、このような社会的理由が考えられるが、もうひとつ大きな社会環境の問題がある。それはメディア文化である。
■メディア仕掛けの若者意識
メディアの世界、とりわけ広告業界において、ちやほやされるのはF1およびM1と呼ばれる人たちである。F1は三四歳までの成人女性、M1は三四歳までの成人男性である。よく言われることだが、若い世代は自分の好みやスタイルが安定していない。それだけに流行やメディアのキャンペーンに乗りやすい。集合的な感染性も高い。子どもがいない場合も多く、親と同居している場合も多いので、可処分所得も高い。そして、ひとたび商品や企業のファンになってもらえれば、余生の長い分、他の世代より末永く消費してもらえる。そういう特性がメディアをして若者層にターゲットを定めせしめてきた。
その背景にはメディア業界の体質も関係している。メディア業界は、比較的若い人たちが主流になって働いている。四〇代半ばには部長になるような業界である。主戦力は三〇歳前後といったところだろう。そうなると、どうしても、視点が若者側に寄る。若者意識を持ったそんな世代が制作するコンテンツには、若者意識が刻印されている。
その結果、メディアは日々の活動の中で、若者が世界の中心であり、彼らの意見と感じ方が優勢意見なのだと伝え続けているようなものである。若者意識に基づく意見や感じ方や価値観というものが、この社会のメインストリームであるかのように錯覚してしまう。
人びとはメディアの言説を参考にして自分の態度を位置づけていくものなので、だれもがここに自分を位置づけたいと思うのは自然の流れであり、自分を安定させるひとつの安全策である。
だから、いつまでたっても若者の気分や視点を卒業できない。男であろうが女であろうが、独身であろうが、結婚していようが、子どもがいようがいまいが、親が元気であろうがあるまいが、自分を若者側におこうとする傾向が生じる。大人が若者意識に浸食される現象の背景は、消費社会におけるこのようなメディア環境によって説明できる。それはメディア仕掛けの若者意識なのである。
■肥大化しきった若者概念
そのため、若者概念はどんどん肥大化してきた。今では三〇代でも十分、若者意識を持つことができる。
ちなみに、こうした間延びした世代意識を先取りしてきたのは、意外にも古式ゆかしい職人の世界や学者の世界である。学者世界では四〇代でも若手と呼ばれることがある。普通は中堅と呼んでいいわけだし、業界によってはベテラン扱いされてもいいのだが、修業時代が長く、その一方で定年が七〇歳近い大学が多い中では、しかも定年後でも学界での研究活動や学界政治は可能であるという世界であるから、四〇代は十分若手ということになってしまうのだ。超高齢社会を実現してしまっている学者世界では、それは一般的なことになっている。
一般社会も、若者志向のメディア環境において、間延びした世代意識が現実のものとなりつつある。だれもが「自分は若い」という価値意識に囚われていて、若者側に自分を位置づける。このような若者優先主義は、大人のほうに志向していないから、必然的に退行し、ときに幼児化するのである。
この間延び現象には、もちろん社会的条件の問題もある。就職難や正規雇用される困難、大学や大学院への進学による教育の長期化、晩婚化によるパラサイトシングル状態の出現などが指摘されている。若者意識のまま四〇代になってしまうということも、ままありうる昨今である。
階層の二極分解が生じていることもたしかで、幻想ではあっても一億総中流という神話を信じられた時代は終わり、明確に下層をなす経済的に不安定な人たちも多い。その場合には、定職がなくても、若者意識に固執することでプライドを守るという側面もあるだろう。過保護だから大人意識を持てないのではなく、裸で雨風にさらされているからこそ、社会という大人なるものに対する敵意から若者意識に固執するのである。
■若者志向か、大人志向か
大人適齢期にある自分が、若者なのか大人なのかを二者択一的に決めることはできない。しかし、若者志向なのか、大人志向なのかを決めることはできる。これは主体的選択の問題だからだ。これは、どんな社会的条件下にあっても、その人の意識しだいで何とでもなることである。
大人適齢期の人が若者志向であるとすれば、必然的に退行的な生活態度にならざるをえない。これは相対的には幼児化と見られる。大学生が花火ではしゃいでいたり、遊園地で夢中になって遊んでいたりするということはよくあることだが、端から見れば「大学生も幼児化したもんだなあ」ということになる。それは年齢にふさわしい行動から退行しているように見えるからである。そんな大学生もじつは童心にかえって、懐かしさを楽しんでいるだけなのだが、それと同じように、大人適齢期の人が若者ぶっていたら、そういうふうに見えるはずである。
これが嵩じると、たとえば、老人になっても「自分は若い」と言い張るような人になってしまいかねない。人によっては微笑ましい姿と見るかもしれないが、私はこれをみっともないと感じる。大人げないとも思う。老いは老いで価値があるのであって、それを正視しすべきなのである。老いの価値を見いだせず、いつまでも若者意識にしがみついていると、老化が自己否定のプロセスになってしまい、自分を苦しくするのは必定である。
そもそも、若さ志向、若さ第一主義というものは、近代主義の典型的なイデオロギーである。近代主義は若さを賛美する。逆に見れば、老いを排除し、力なき者を排除する思想である。この程度の認識はもつべきだ。
客観的状況にかかわりなく、無自覚な若者志向で行くか、意識的に大人志向で行くかの選択は、日常生活のありようを左右する大きな選択だ。大人適齢期の人間としては、若者志向と訣別できるかが一つの課題であると思う。
問題なのは、大人志向への切り替えのタイミングを逸することである。就職、恋愛、結婚、出産、管理職、家を建てる、親の死、自分や家族の病気、不慮の事故やトラブルなど、私たちが若者意識を脱ぎ捨てる機会はいくつかある。これらの事態は、他者と正面から向き合い。難しい交渉をこなし、大人としてふるまうことが要求されるからだ。しかし、内発的な転換を主体的にはからないかぎり、若者意識の呪縛からは自由になれないのである。
三 教育の呪縛からの自由
■アダルト・チルドレン
大人は過去に縛られる。なかなか過去から自由になれない。身体に染み付いている。そんな中に家族の問題がある。私たちは、自分が生まれてくる家族を選べない。小さな子どものころに体験したさまざまな出来事や親の仕打ちが身体に刻印されている。
一九八〇年代から九〇年代にかけて自分をアダルト・チルドレンだと定義することがはやった。アダルト・チルドレンとは、もともとはアメリカでアルコール依存症の親との関係で子どもがいくつになっても生きづらさを感じるというところから広まった概念だ。
それが拡大解釈されて、問題のある親のもとで長年生活をともにすることで、親に呪縛されている意識が大人になっても抜けず、生きづらさを感じて悩むことを指すようになった。これが一般に広まるにつれて逆転して、「自分が生きづらいのは、あの親のせいだ」と納得する人たちのことをアダルト・チルドレンと呼ぶようになった。
この概念は、オリジナルの使い方は別にしても、総じて心理学系統によくあるオカルト的な概念だったと私は思っているが、それが気に障れば、宗教的癒し機能を運命づけられた概念だったと言ってもいい。じつに多くの悩める若い大人に受け入れられたものだった。
アダルト・チルドレンという概念は、自分を一方的に被規定的な存在として定義する点において、きわめて退行的である。若者が子どもに退行するのは容易である。そして、たえずそういう誘惑は存在する。
さらに、若者と言えない年齢になっても家族の過去の因縁に縛られるということはある。「共依存」と呼ばれる相互依存関係から抜けられない人たちも多いようだ。マザコンの息子と子離れできない母親の関係などもその一種である。
深い思い込みが次へのステップを阻害することがある。カウンセリングも有効なのだろうが、心理的な自己分析は退行の深みにはまる場合が多く、かえって呪縛が深くなる危険がある。それよりも社会学的な視野を広げたほうが効果的ではないかと私自身は思うのだが、それはともあれ、生まれ育った家族から心理的距離をどのように確保していくかは、大人の必須条件である。
■教育の被害感情
家族とともに、大人へのステップを妨げやすいのが教育である。それは教育そのもののに問題があるということではない。自分の生きづらさを教育に責任をなすり付けるやり方に問題があるのだ。ある種の被害意識から呪縛されるのである。
万事受け身のくせに妙に頑固者だった私は、とくに目立つこともなく、学校を卒業したものの、「何もやってくれなかった」という思いがなかなか断ち切れなかった。学生時代後半は師匠にめぐまれ、自分なりに充実していたが、それでも漠然とした不満を持っていたように記憶している。大学院時代については、すべて自分で自分を鍛えればよかっただけなのだが、何をしていいかわからず、日々のアルバイトに追われるまま、研究者としての一生を決すると言ってもいい二〇代後半をずいぶん無駄に過ごしたものだった。後悔が残る分、系統的にトレーニングしてほしかったという被害感情が残るのである。これがかえってよくなかった。被害感情に囚われて身動きできなくなってしまうのである。その分、自律した大人であろうとする意識をもつまでに時間がかかった。
私の場合は貧乏系研究者特有の特殊なケースだと思うが、学校の教師や大学への不満はみんな持っているものだ。入社当初の会社の対応についても、そんな思いを持つ人もいるだろう。たとえば、ろくにトレーニングもされずに現場に出されて苦労したというような。
しかし、自覚があるのはマシなのかもしれない。長年の教育のプロセスの中で習い性になってしまっている癖を引きずっていることも多い。これは本人はなかなか気づかないものである。
哲学者ミシェル・フーコーは「規律」と呼び、社会学者ピエール・ブルデューは「ハビトゥス」と呼んだが、教育というのは身体に及ぼす権力作用なのだ。それはいつまでも受動的な状態に主体(人間)を保とうとするのである。ここから自由になるのは容易ではない。
人それぞれ受けた教育は千差万別で、呪縛のされようもさまざまだろう。いつかは、そうした教育の呪縛を意識化して、そこから自由にふるまえるようになりたいものだ。そうしてはじめて大人というものに近づくのである。
四 ルサンチマンの呪縛からの自由
■他者による縛られ方
ルサンチマンとは怨念のことである。怨念と言うと、ちょっと大げさな感じがするが、程度の差はあれ、怨恨や復讐心や被害意識のことを指している。相手が明確な場合もあれば、世間一般に対して持つ場合もある。無差別殺人や通り魔殺人などでクローズアップされるような「世間に復讐する」といった抽象的なルサンチマンは少々やっかいだ。そこまで行かないまでも、私たちは大なり小なりルサンチマンを抱えて生きているものである。
ルサンチマンは通常、強者に対する弱者の怨念のことを指す。若いときには、だれでも弱者の側にいるから、相手は相対的に強者になる。強者を悪者にして、自分に正義があると思い込み、そうしたアイデンティティ形成が行われると、原理主義的な乱暴な考え方になりがちである。
ルサンチマンの社会的効果とは、自分を絶対的な正義の側に位置づけることによって、かえって攻撃を正当化するところにあるのであって、いつまでも子どもっぽい思考世界に囚われてしまうのである。被害妄想は臨戦態勢を生み、周りの人たちを傷つける。トゲだらけの人はいるものである。
いじめや差別された経験も、大人への道を妨げるときがある。のちに述べるように差別経験はむしろ人を大人にする。しかし、そこには一定の覚醒のプロセスが必要であって、そのチャンスがない場合には、ルサンチマンの人になって停滞することがある。
ルサンチマンの人は、しばしば他人に敵意や嫉妬を向ける。虚栄心も人一倍あるものである。こういう人と関わりになると、自分がいつ「敵」にでっち上げられるかわからない怖さがある。こういう人は、外見は大人でも、人格的には子どもであり、過剰防衛に走りやすい。
もちろん、こういうルサンチマンを一種のプラスのエネルギーとして変換させて、猛烈に仕事をするという飼いならし方もある。私自身も、ルサンチマンを抱えており、それが仕事のエネルギーになっていた時代もあった。とくに若いとき(大人前期)はそうだったように思う。最近、斉藤孝氏がさまざまなところでルサンチマンの効用を説いているが、私にはよくわかる。斉藤孝氏の仕事っぷりも、そうした変換の賜物のようである。
しかし、これが言うほどかんたんでないのもたしかである。なるほど、その人に活躍の場が与えられたさいには、こういう変換もあり得るだろう。しかし、人生、なかなかこうはいかないものである。
■スティグマと不幸感の増幅
なぜもう少しマシな家庭に生まれてこなかったのか。せめてもう少しお金のある家で育ちたかった。行きたい学校に進学させてくれていれば、人生ずいぶん変わったろうに。などなど、境遇を嘆くことはだれにでもあることだ。
しかし、気をつけなければならないのは、それが自分の行動や態度の弁明に利用されることだ。これでは、自分の中で相対化できないで、いつまでも不幸感というしこりを抱えてしまう。
問題なのは、不幸感というものは、しばしば悪循環して増幅してしまうことだ。社会学で「予言の自己成就」と呼ぶメカニズムが、不幸感にはよく当てはまる。「私は不幸だ」とか「あれさえなければよかったのに」といった呪文を自分にかけてしまうことで、自由に考えたり自在に動くことができなくなってしまい、良い結果を導きだせなくなってしまうのだ。
自分の容姿であるとか障害や病気であるとか、性格上の問題や経歴上の不満のようなものがあったとして、それを気に病むとき「スティグマ」という。他人のまなざしが気になるような弱みである。だれしも何らかのスティグマを抱えているものである。
この場合「他人のまなざし」というのがクセ者である。社会学ではこれを「一般化された他者」というのだが、これは特定個人のまなざしではなく、自分の中で抽象化されたものなのである。これは、じっさいにつきあってきた人たちの反応の集積であると同時に、そのような反応に対する自分の反応の集積でもある。私たちは、言ってみれば、いつでも自分の内部の「一般化された他者」から監視されているのである。
たとえば「私の顔を見るとみんな顔を背ける」と「私」自身が思うこと自体が集積したものである。言わば他者という鏡に反射した自画像が反省的回路によって「自分の物語」をつくっていくわけである。
だれもがこうした「自分の物語」を持っている。これがいわゆるアイデンティティの中核をなす。不幸感はこの中で増幅される。
これに対する戦略は、「多元的自己を生きる」ことではないかと思う。つまり、さまざまな自分を生きること。ある種のいい加減さを持つこと。「私は私でなければならない」というような潔癖さが不幸感を増幅させる側面も無視できない。あまり自分をまとめすぎないことである。
私たちはさまざまな人たちと出会い、そのつど他者との関係によって自分を規定されるものである。だとすれば、自分の一貫性よりも、そのつど成立する他者との関係に寄り添って自分を生きるようにすればいいのではないか。
そもそも、「ありのままの自分」とか「ほんとうの自分」というものが自分の中にあるのではない。他者との具体的な関係の直中に発生するのである。だとすれば、新しい自分は新しい他者との出会いの中にある。あるいは旧知の他者とのあいだに新しい関係ができれば、そこに新しい自分があるということだ。おそらく、このような新しい他者と出会っていくことこそ、古いルサンチマンから距離をとる最良の方法である。
■差別を生きる
差別はないにこしたことはない。しかし、社会には必ず差別がある。私たちは(どんな人であっても必ず)差別することもあれば差別されることもある。両者はワンセットで捉えるというのが、新しい大人の覚悟というものである。つまり、差別されていると被害感を持つだけでなく、自分もまた差別に加担しているという自覚を持つべきだ。
差別は社会構造に組み込まれている。「排除されていない者は包括されている」と社会学者のゲオルク・ジンメルは述べている。
差別現象を考えるにあたって、ふつう三つの立場が想定される。差別する人、差別されている人、関係ない人——この三者である。そして差別する人と差別される人との関係について思考の焦点が合わされる。したがって、関係ない人は文字どおり関係ない人として問題の後景に退くことになる。ジンメルのこのことばは「それはちがう」と言っている。関係ない人すなわちとりあえず差別されていない人は、ほんとうは差別側に属しているのだということだ。つまり差別に関係ある人なのだ。
じっさい、現実の差別現象において、一見、差別に直接手を下していない、いわゆる傍観者や無関心層の存在は、じつはかなり大きいと指摘されている。たとえば、社会学のいじめ研究によると、いじめの被害の大きさは、いじめっ子の数ではなく、傍観者の数に相関するとのことだ。見て見ぬふりをする人たちの存在が、いじめっ子たちに無言の支持をあたえて歯止めをなくしてしまうという。
ジンメルは、傍観者の役割をとる人たちも、結局、排除する側の内集団に取り込められているということを指摘したかったのではないか。
子どもは差別する。若者も同様。だとすれば大人が食い止めるしかない。どの立場にいるとしても、だ。
ところで、差別の中には差別だと認知されているものと認知されていないものがある。認知されているものは、差別された人たちが大変な運動を積み重ねた結果として認知されている。しかし、そうした社会運動の資源動員が得られなかった場合には、その差別は認知されない。差別が社会問題として認知されるには、それなりの条件が必要なのだ。その意味で、見える差別と見えない差別があるということ、問題とされる差別と問題にされない差別があるということを指摘しておきたい。
極端な場合では、子どものいじめがそうである。どうでもいいような微細な個性がことさらに強調される。どんな特性であっても差別の理由になってしまうのだ。たとえば企業合併が盛んな最近では、どの会社出身なのかによって昇進や異動が左右されるということがあるという。学閥のあるようなところであると、出身校によって差が付けられる。
このような待遇を差別と感じるかどうかはその人しだいと言いたいところだが、じっさいには差別待遇を受けた側は必ず感じるものなのである。差別する側にはそういう実感はないものだ。被害妄想という言葉が投げつけられやすいのは、このためだ。
差別体験は確実にルサンチマンになる。それはしばしばやり場のないルサンチマンである。
この場合、あきらめるのが大人の態度というものだろうか。それとも、断固戦うのが大人の道だろうか。私は両方ともありだと思う。しかし私は、差別との緊張関係を生きる道もあるのではないかと思う。ルサンチマンの負のエネルギーを自分の中で正のエネルギーに変換する仕方を自分なりに見いだすことである。簡単なことではないと思うが、意識的にその道を選ぶことがないかぎり、ルサンチマンの処置に困ることになるだろう。
■格差を生きる
最近の社会学や経済学では「格差社会」と呼ばれる議論が盛んになっている。一億総中流と言われたのは幻想であって、じっさいには階層が二極分解しているというのである。そうした中にあって、大人の議論も少なくとも二つの階層に分けて論じなければならないのかもしれない。小金持ちの大人と貧乏な大人である。ルサンチマンになるのは当然後者である。
一方で、格差は人をルサンチマンの人にする。自分がこんなに貧乏なのは、親のせいだとか、学校のせいだとか、上司のせいだとか、社会のせいだとか、とにかく自分以外のものに対してルサンチマンを抱くようになる。それは、とりあえずは自分を守るためである。プライドを守る防衛本能のようなものだ。私たちは子どものときからプライドが高いものなので、さきに防衛に走ってしまって、自分の生き方への反省の回路が開かないのである。
とは言え、それには一理ある。社会学者や経済学者が主張しているように、格差社会には社会構造的な理由があるのであって、個人がかんたんに抗えないような強い力をもっている。現在の日本の雇用状況では、ひとたびフリーターの道に入ってしまえば、なかなか正規雇用の安定した生活には入れない。高校中退のまま大人になってしまえば、自営業で成功しないかぎり、低賃金の仕事としか出会えないものである。これらは社会構造的な問題である。
だからこそ、他方で、格差は人を覚醒させる。それは社会環境に対する感受性を高め、政治意識を高めることがある。ときには、こういう構造に対抗するための運動に参加するということもあるだろう。格差は、やりようによっては人を辛口の大人にする。
あるいは、スローライフというような選択肢もある。これは考え方を変えないといけない。消費社会の論理に無自覚にどっぷりつかったままの貧乏生活はつらい。けれども、消費の論理から距離を置いて、意識的にマイペースで生活を設計するやり方であれば、それは一つの生き方である。生活の意識化というか、ライフスタイルの自覚化ができるかどうかで、ルサンチマンから呪縛されないで済む。
特に大人前期は職探しや生活の場探しという形で格差を乗り越える試みをしたりするが、それがどうにもならないと知る大人後期においては、こうした考え方の転換をしなければ、一生、ルサンチマンがついてまわり、怨念の人になってしまう。その点では四〇代の「人生半ばの過渡期」が節目になるだろう。ここをどう乗り切るかが大人の勝負である。
五 大人思考への道
■大人思考
大人になることを妨げるファクターとして、三つの問題を見てきた。これらの呪縛から自由になることは、そんなにかんたんではない。いつまでも若いときの経験と意識に縛られ続けることが良い結果を生むとは思えないけれども、みんな墓場まで持っていくという人も少なくないと思う。
呪縛を解くためには一段高度な知性が必要だ。それを本書では「大人思考」と呼ぶことにしよう。その内実はこれからおいおい考えていきたいが、とりあえずヒントのようなものを示しておこう。
日本テレビのドラマで『すいか』というのがある。その中に浅丘ルリ子が扮する「教授」にノイローゼ気味の女子学生が成績についてごねてくるシーンがある。「教授」は断固はねつけるが、ちょっと眼を離したすきに女子学生が研究室の窓から飛び降りてしまうのである。学生は命に別状なく助かるのだが、病院のベッドで「教授」は学生に向かって言うのだ。「生きていてくれてありがとう。私たちはまだまだラッキーよ」と。結局、そのことが原因で「教授」は大学を辞めることになり、遠い旅に出るということになるのだが、ドラマはドラマとして、これはひとつの大人思考のありようを描いているように思う。
たとえば人生上のトラブルにあったときに「ああ、自分はまだまだラッキーだ」と思えるかどうか。能天気とか楽天家ということではない。プラス思考というのでもない。直面している現実に対して、他の可能性もあり得たという想像力を持てるかということだ。行く筋ものシナリオを描いてみて、目の前の現実があるのがなぜなのかを分析する力が必要だ。その上で「自分はまだまだラッキーだ」と思えるかどうか。「ラッキー」とまで行かなくてもいいが、そういう想像力が試されているのである。これが大人の力であり、私が「大人思考」と呼びたいものである。現実を固定的に見て悲観するのではなく、流動的なプロセスとして見て、そこに能動的に介入できる余地を発見するような知性が、大人特有の力なのだ。
立ち位置を変えてみること。その視点から相対化すること。これができるに越したことはない。しかし、多くの人にとって、この知性はいつでも呼び出し可能なものではなく、ある環境・ある状況において、よく発動されるものなのである。
■さまざまな問題状況
「こうであって、ああでないのはなぜなのか?」という疑問を自分の中に起こすことは容易ではない。基本的には、問題状況の関数としてそうした思考が私たちの中に発生するのである。
社会学では、だいたい三つのマクロな問題状況を指摘してきた。
第一に、社会構造が全面的に崩壊して、それまで「あたりまえだ」とされていたことが「あたりまえ」でなくなってしまう場合。日本が戦争に負けて占領されていた時代などが典型である。既成の日常生活を支えていた社会構造が不安定化してしまったとき、切実な生存欲求に基づいた実践的な反省が生じる。
第二に、カルチャー・ショックの場合。外国旅行する人は、当地ではごくあたりまえの日常的なことがらにいちいちショックを受けるものだ。この驚きは異文化に対する違和感や拒絶から始まるが、やがてその異文化を理解でき受容できるようになると、今度は異文化の視点から自分たちの文化に対して距離をとって見ることができるようになる。幕末から明治の「文明開化」の場合も、他国の異質な文化を受け入れる過程で、さまざまな驚きが体験された。
第三に、マージナルな位置にある個人や集団の場合。「マージナル」とは「周辺的」「周縁的」「境界上の」のことで、「中心」に対して「周辺」「周縁」ということである。少数民族や非主流の考えを持つ人たち、社会の中に正当に位置づけられていない人たちは、社会のありようを疑う眼を持たざるを得ない。その人たちにとって社会の現状が問題状況なのである。
しかし、これらはマクロな問題状況で、もっと日常的な、ささやかなシーンにおいて体験されるミクロな問題状況もある。習慣的パターンが正常に生じないときや予期しない反応に直面したとき、あるいは不本意な待遇を受けたとき、こういうときもまた「問題状況」である。既定の事実が疑わしいものに見える、一種の異化効果が生じるからだ。
一般に、問題状況が反省的な感受能力を生むのだ。私たちの人生でもしばしば問題状況は発生する。大人とは、日常的にこれらの問題状況を意識しながら生きる人のことである。「意識しながら」というのは、緊張関係を生きるということである。次章では、この緊張関係を生きるということに焦点を当てて考えてみよう。
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