社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
環境問題の構造
環境社会学・概説
環境問題の章も本編では断念したものだった。ここで、環境社会学の視点から現代の環境問題について論じた主要文献を紹介しておこう。
日本の環境社会学を俯瞰できる基本書として、飯島伸子編『環境社会学』(有斐閣一九九三年)。日本の環境社会学は、深刻な健康障害を含む社会問題としての環境問題の社会学的分析という特徴があり、公害問題への取り組みから始まった。日本は公害大国だという特殊事情を反映しているということで、「加害―被害関係」が関心の焦点になる。このあたりの歴史的事情は、飯島伸子『環境社会学のすすめ』(丸善ライブラリー一九九五年)に詳しい。以前から公害被害の問題に取り組んできた著者の研究史を軸にして環境社会学を解説した新書である。環境社会学会『環境社会学研究』創刊号(新曜社一九九五年)は日本環境社会学会の機関誌であるが、「環境社会学のパースペクティブ」特集を組んでおり参考になる。
日本の環境社会学が「環境問題の社会学」(sociology on environmental problems)であるのに対して、欧米のは「環境の社会学」(sociology of environment)という特徴がある。後者の基本書が、C・R・ハムフェリー、F・H・バトル『環境・エネルギー・社会――環境社会学を求めて』満田久義・寺田良一・三浦耕吉郎・安立清史訳(ミネルヴァ書房一九九一年)。従来の社会学の人間特例主義を反省し、社会環境・文化環境中心の環境概念を自然環境に拡大するというラジカルなもので、ある意味では強力な社会学批判といえよう。
生活環境主義
日本独特の環境社会学研究から提唱された理論として「生活環境主義」がある。鳥越皓之編『環境問題の社会理論――生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)と、鳥越皓之・嘉田由紀子編『水と人の環境史――琵琶湖報告書(増補版)』(御茶の水書房一九九一年)において提唱された考え方である。
それによると、環境問題に対するスタンスのとり方には三つある。第一に近代技術主義。行政当局による巨大開発は近代技術主義に立つことが多い。自然は資源と見なされ、利用開発すべきものと位置づけられ、不都合があれば改変すべきだと考える。
第二に自然環境主義。自然保護運動はこれに立つ。人の手が加わらない自然がもっとも望ましいとする立場である。
しかし、近代技術主義は「住民を守る」といいながら、開発によってその生活を破壊することが多い。自然環境主義は安易なノスタルジーに流され、そこに居住する人びとの生活のことを無視してしまう傾向をもつ。ちなみに、一九七〇年代から大きな勢力になりつつある「ディープ・エコロジー」はさしずめ「自然環境主義」の急進派ということであろう。北アメリカで「ディープ・エコロジー」のような運動が支持されるのは、手つかずの自然(原生的自然)が存在し、そこに生活する人びとが極端に少ないからである。このように自然環境主義は生活現場から遠い地点にいるからこそ可能な論理でもある[なお、アメリカの環境運動の歴史と多様性が一覧できる基本書として、R・E・ダンラップ、A・G・マーティグ編『現代アメリカの環境主義――一九七〇年から一九九〇年の環境運動』満田久義監訳(ミネルヴァ書房一九九三年)]。
それに対して、生活環境主義はその地域社会に生活する居住者の立場に立つ。生活の必要に応じて自然環境の「破壊」も認める立場である。近代技術主義にせよ自然環境主義にせよ、私たちは環境問題を考えるとき、知らず知らずのうちに自然科学的発想に立ってしまっている。しかし、そのときわたしたちは具体的な社会生活の複雑性をすっかり忘れてしまっているのではないか。そこに生活している人びとと自分の生活とその他大勢の人びとの生活の連関性を。これが生活環境主義の喚起する視点である。
生活環境主義は、これが日本の環境社会学のすべてではないが、日本のような自然環境と社会環境がきわめて近い位置にあるところでは、ひとつの実践論的な落としどころなのである。生活環境主義について最近のまとまりのあるものとしては、鳥越皓之『環境社会学の理論と実践――生活環境主義の立場から』(有斐閣一九九七年)がある。
受益圏と受苦圏
「受益圏」とは、問題とされる組織の活動による利益を何らかの形で享受する人びと(さらに組織や地域や階層や世代や人種)。「受苦圏」とは、その組織の活動によって平安な生活環境が保持できなくなる人びとのこと。受益圏と受苦圏の範囲の重なりと分離は現代社会の場合じつに多様になっているので、「加害者 対 被害者」といった単純な二分法では捉えられなくなっている。
この概念を駆使した実証研究としては、船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)と、舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題――東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(有斐閣一九八八年)が代表的なもの。梶田孝道『テクノクラシーと社会運動――対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)にも詳しい説明がある。
社会的ジレンマ
行為主体(個人・集団・組織)の合理的な行為の累積が、人びとにとって望ましくない結果を生みだしてしまうことを「社会的ジレンマ」と呼ぶ。環境問題は、私的には合理的な行為であっても、その集積が共有環境を悪化させるという皮肉な社会現象といえる。
社会心理学の立場からのやさしい解説として、山岸俊男『社会的ジレンマのしくみ――「自分1人ぐらいの心理」の招くもの』(サイエンス社一九九〇年)。環境問題に応用した論文として、舩橋晴俊「『社会的ジレンマ』としての環境問題」『社会労働研究』第三五巻第三・四号(法政大学社会学部学会一九八九年)。専門的な論文だが、これが基本文献になる。
環境問題報道
うんざりするほどの量で環境問題がマス・メディアによって伝えられているように感じるが、ほんとうにそうなのだろうか。それを考えるためのヒントを二冊。環境ジャーナリストの会編『地球環境とジャーナリズム』(岩波ブックレット一九九一年)と、本多勝一『日本環境報告』(朝日文庫一九九二年)。伝えられない問題の存在について想像してみたい。
災害社会学
一九九五年の阪神・淡路大震災の衝撃は大きい。災害の問題性を思い知らされた。目下さまざまな分野の研究者がこの災害の教訓を学ぼうとしている。ここでは社会学系でまとまりのある本を二点紹介しておこう。広瀬弘忠『災害に出合うとき』(朝日選書一九九六年)は他の大災害の事例研究も含めて社会心理学的アプローチから被災者の心理や行動について論じている。野田隆『災害と社会システム』(恒星社厚生閣一九九七年)はより社会学的なアプローチからのもので、とくに組織論的な分析が中心になっている。
災害時にはコミュニケーションのあり方が大きくものをいう。それを研究する分野を「災害情報論」という。日本では東京大学新聞研究所(現・東京大学社会情報研究所)が拠点になって研究を進めてきた。東京大学新聞研究所編『災害と情報』(東京大学出版会一九八六年)はその代表的な研究。広井脩『災害情報論』(恒星社厚生閣一九九一年)もその成果をまとめたもので、この分野の基本書である。
関西以外に在住の若い人で、この大震災のリアリティがピンと来ない人には、まず次の本を読むといいだろう。朝日新聞社編『大震災サバイバル・マニュアル』(朝日文庫一九九六年)。じっさいにどういう場面に直面することになるのか、ディテールをきちんと押さえておくことからすべては始まる。
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