社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
同時代の社会問題に関わる
社会問題論のキーコンセプト
そもそも社会問題(social problems)とはなんだろうか。
社会問題についての理論を社会問題論と呼ぶことにすると、社会問題論には多様な考え方がある。このうち二十世紀にあいついで登場し流行した考え方をキーワードごとに整理してみよう。
(1)社会病理――社会は生物有機体のようなものだとする社会有機体説にもとづいて、生物の病気にあたるものを社会病理現象とする。一九二〇年代アメリカ社会学に流行し、やがて一般化した概念。これにもとづいて社会の病理現象を研究する部門を社会病理学(social pathology)という。
(2)アノミー(anomie)――「こうなりたい」「こうしたい」という人びとの欲求が異常に肥大化し、その欲求を満たすために必要な充足手段とのあいだにバランスが失われてしまうことによる無規制状態のこと。デュルケムの「アノミー的自殺」概念に由来する。
(3)社会解体(social disorganization)――習俗や慣習によって社会がその成員を統制できない状態になること。とくに新興都市に典型的にみられたため一九二〇年代から三〇年代あたりにシカゴ学派などによって使用された概念。スラムやギャング団のように社会全般の道徳的秩序と異なる独自の集団や地域が問題となる。
(4)逆機能(dysfunction)――社会システムの維持存続に貢献すべき部分要素が、その機能を適切に果たしていないか逆に脅かす作用をしていること。一九五〇年代から機能主義の一般化にともなって使われるようになった。たとえば、もっとも合理的とされる官僚制組織が「規則万能主義」「ことなかれ主義」「なわばり主義」に陥って硬直化した側面をみせるとき「官僚制の逆機能」という使い方をする。
(5)逸脱(deviance)――社会の規範が想定するスタンダードからはずれた行動をとること。「同調」と対概念になる。「逸脱行動」(deviant behavior)という使い方をする。「異常」や「病理」よりもこちらの方がより中立的であり、最近の社会学でよく使われる。
(6)レイベリング(labeling)[社会的反作用(social reaction)]――社会集団は、それを犯せば逸脱となるような規則をつくり、これを特定の人びとに適用してアウトサイダーのラベルを貼る。そして貼られた人・行為・集団が「逸脱」として問題化されるという考え方。機能主義理論に対抗する考え方として一九六〇年代以降広く使用されるようになった。
いずれも現在なお現役のとらえ方であり、さまざまに組み合わされて用いられることも多いので、あえてバラして整理してみた。わたし自身は「レイベリング」というとらえ方にひかれてきたが、「アノミー」や「逆機能」といった概念の方がとらえやすい問題[たとえば自殺]もあって捨てがたい。また「逸脱」は行為をあらわすのに適しているが、ウェーバーのいう意味喪失の問題やマルクスの物象化の問題のような社会全体の問題をあらわすときには適当ではない。これらについてはマルクスの「疎外」概念をつけくわえるといいかもしれない。「社会病理」概念はかねてよりそのイデオロギー性が批判されてきたが▼1、日本では特定のフィールドをもつ研究者や実務者によって今なお支持されつづけているようだ▼2。
ともあれ以上の諸概念は相互に重なりあう面もあり、またくいちがう面もあるが、社会学感覚の点からいえば複眼的であるにこしたことはないだろう。さしあたって社会問題の定義をあらかじめせばめておくメリットはないからだ。
社会問題と価値判断
さて「なにが社会問題か」となると、じつはむずかしい問題がひかえている。
たとえば「社会病理」というときには一定の「正常な」状態が想定されていなければならない。「逸脱」も一定の基準や社会的ルールを想定しなければ、そこからはずれたかどうかわからないはずである。「社会解体」も既存の社会秩序を基準にして判断される事態であり、それがじつは「社会変動」の一局面にすぎないとする見方もありうるし、「解体」地域を自律的なサブカルチャーとして認知することも可能である。その意味で「なにが社会問題か」の判定は、なんらかの価値判断をふくむのである。
問題は当然のことながら、このような価値判断が絶対的なものではないということだ。偏見にもとづくものかもしれないし、イデオロギー的かもしれない。かつては、主流だったかもしれないが、現在では少数派かもしれない。支配者にとっては妥当かもしれないが、民衆にとっては抑圧的かもしれない。その国では一般的でも、その国のある地域では特殊かもしれない。また世代や宗教によってもさまざまである。その例をいくつかみることにしよう。
たとえば家族病理というカテゴリーがある。これは家族成員間の不和や葛藤・家出・離婚・別居・単身家族・老人介護問題・家庭内暴力などを「病理」とみなす考え方である。たとえば「片親家族」は、かつて「欠損家族」「問題家族」と呼ばれ、病理的なものに位置づけられてきた。しかし、このさいなにを家族病理とみなすかは「家族はどうあるべきか」という価値観すなわち「結婚生活はどうあるべきか」「離婚は破綻か解決か」「親と子の理想的な関係は」といった家族観によって大きく左右されるのであって、家族病理の定義にとって問題なのは、むしろ「健全家族」の概念なのである。このように、社会問題の定義そのものがじつは文化現象であり、あくまでも相対的なものだとの基本認識から始める必要がある▼3。
視点の闘争
じっさい社会問題の定義は多面的な様相を呈している。たとえば最近のマンガの性描写は、その多くの読者にとってはごくナチュラルなものだが、一方には、それを「有害図書」として告発する母親たちのグループがあり、摘発する警察がある。じつはその告発自体が表現の自由を制限する点で問題たりえるのだが、ふつう告発側にその認識はない。両者の利害対立が社会問題の定義にそのまま反映している例である。
また時代によって定義の異なる場合も多い。たとえば教育界における体罰は学校教育法で明確に違法行為とされているが、現実に社会問題化したのは比較的最近のことである。かつて教師と親たちはともに体罰を許容する点で共通していたが、近年それがくずれ、さらに第三者の観察によって実態が一般に認識されてきたことによって社会問題となった。学校教育問題はおおむねこの道筋を通っている。また老人問題はいうまでもなく年をとることが問題ではなく、かつて老人の扶養介護を担ってきた家族がもはやその役割を負えなくなってきたから社会問題となってきた。だから、老人をめぐる社会環境の変化が、問題の定義を変えたのである。
喫煙問題は法律的には二十才未満に生じるが、現実には高校を卒業すれば問題にされない。しかし、肺ガンとの関連を示す科学的データがでて以降、副流煙が社会問題化し、嫌煙運動が高まり、職場や公共機関での分煙化がすすみつつある。つまり、タバコも法律も変わらないが社会問題の定義が変わったわけである。同性愛差別の問題もこれに似ているが方向は反対だ。六〇年代アメリカにおける反差別運動によって同性愛者への差別はやわらいだかにみえたが、八〇年代のエイズの衝撃からふたたび不当な差別が強まり深刻な社会問題になった。この場合、同性愛が問題とされたが、同時にかれらへの差別が社会問題なのである。
このように価値観の対立が深刻な結果をおよぼす例はほかにもある。「エホバの証人」信者の輸血拒否問題はその典型である。これは医療関係者からすれば患者の死をともなう大問題であるが、当事者にとっては生と死に関する宗教的信条にもとづくものであり、むしろそれが医療現場で尊重されないことが問題となった▼4。
これらは「だれが社会問題の判定者か」という問題にも密接につながっている。当事者か、一般の人びとか、行政サイドの統制者か、それとも第三者の観察者か。また問題を告発するのはジャーナリズムか、世論か、社会学者のような専門家か。このように社会問題を考える上では〈視点の闘争〉といった状態にまきこまれるのを覚悟しなければならない。
公式的見解
「視点の闘争」に関していくつかの主要なファクターをとりあげておきたい。
まず第一に指摘しておきたいことは、これまで多くの社会問題は公権力によって定義されてきたということだ。つまり社会問題は中央政府によって政策的関心から認知され定義された問題であることが多い。失業・貧困・都市・移民・犯罪・非行などの問題は政府や行政当局が政策をおこなう上で、そのつど定義してきたものである。したがって、そこにはかならず「公式的見解」(official conception)がふくまれている▼5。これはすでに一定の価値判断を前提している。つまり、あるものごとが公式的見解通りにうまくはたらかないことが「問題」だとする行政当局者や管理実行者[役人・法律家・教師・警官など]の視点――道徳や意識――をすでにふくんでいる。そのためオフィシャルに定義された「社会問題」の枠組では、ほんとうの当事者――つまり「問題」とされた人びと――の視点がぬけおちることになりがちである。
すでにふれたシカゴ学派の数々のモノグラフは、そうした公式的見解からはみえてこない社会の側面にアプローチしようとする社会学のエートスが愚直に実行されたものだったといえよう。つまり「一般市民」から問題とされている人びとの意味的世界を理解しようという一種の「インサイダー主義」が全面に押しだされたものだった。この点についてバーガーは法律家と社会学者を対照させてつぎのようにのべている。「法律家の関心は、状況の公式的見解とでも言うべきものに向けられている。これに対して、社会学者はしばしばまったく非公式的な見解を取り扱う。法律家にとって本質的な事は、法律がある特定のタイプの犯罪者をどのように見るのかを理解することである。社会学者にとっては、犯罪者が法律をどのように見ているかという事も、それに劣らず重要である▼6。」大新聞が標榜するような「客観中立」などありえないという現実的認識に立つかぎり、社会学はこのように多面的かつ相対主義的に問題の全体性をとらえることによって〈明識〉としての科学性を確保しなければならないだろう。
状態ではなくプロセスとしての社会問題
ある種の行為や集団がもともと「悪」「異常」「有害」「病理」「逸脱」であるという前提から出発できないことが、社会学的社会問題論独特の出発点をなす。
社会問題は結局、人びとがどのように意味づけるかによって変わってくる。この点についてはデュルケムの古典的なつぎのテーゼがすでに社会学の出発点を明確に語っている。「われわれはある行為、それが犯罪だから非難するのではない。われわれが非難するから犯罪なのである▼7。」この徹底的にプラグマティックな――別のいい方をすれば即物的な――思想こそ社会学特有の発想法である。
この発想法から一般化すると「社会問題とは、人びとが社会問題と考えるものである」という定義にたちいたる。これはつまり社会問題の主観的定義そのものも研究対象となるということだ。要するに、社会問題をある客観的な状態ととらえるのではなく、ある客観的状態とそれについての主観的定義をめぐる人びとの一連の活動のプロセスとしてとらえるのである▼8。
ある状態が社会問題かどうかは、ある程度はその社会の常識や通念によって判定される。その意味で人びとのもっている常識や通念――これらは世論として実体化される――は重要である。しかし常識には限界があることを忘れてはならない。いってみれば、常識はひきさかれている。これは第一に、同じ社会状態がある人びとには社会問題として、一方、他の人びとには快適な事態として定義されるという事態をさす。第二に、社会のメンバーが平等に判定するわけでなく、どうしても権威と権力の戦略的地位をしめる人びとの判断が高いウェイトをもつということだ。その意味で常識のもつ権力性も考慮しなければならない。第三に、人びとがありのまま事態を認識し、自己の利害に忠実な判断を下すとはかぎらないということ。ハバーマスの「システムによる生活世界の植民地化」の展望が示すように、人びとはしばしば自己欺瞞におちいる▼9。現実の社会問題に関わるとき、社会学が見極めねばならないのは、このプロセスである。
触媒機能を果たすもの――社会運動・ジャーナリズム・科学
ある状態が社会問題になるプロセスで重要なファクターとなるのは、公式的見解と常識ばかりではない。世論形成という形で重要な触媒のはたらきをするものがほかにもある。社会運動とジャーナリズムそして科学である。
社会運動(social movement)は主として私的トラブルと公共のイシューを結合するところがら生じる。たとえば、差別を受けている人びと・騒音に悩まされている人びと・不当な労働条件ではたらいている人びと・自由を束縛されている人びとなどが、自分の身に生じた私的なトラブルを、自分自身の行為の結果ではなく社会のしくみの結果として認識し、これを改善しようとする努力から始まる。また環境保護運動のように直接的に自己の利益を守るためではなく、社会正義や政治理念・倫理的要請から生じる場合も多い。いずれにせよ社会運動は現代の社会問題の主役級の役割を果たすようになっている。
ジャーナリズムの役割も同様である。世論形成上の強力な機能はもちろん、長期的には社会意識を大きく左右する。とくにジャーナリズムは日々のニュース・ヴァリューの判定を通じて「今なにが問題とすべきテーマか」を定義する点で非常に強い影響力をもつことがわかっている▼10。
ジャッジの役割をするのが科学である。自然科学は公害認定などのさい決定的な役割を果たすし、政治学・法律学・経済学などの制度化された社会科学は、社会問題を判定する上で一種の正当化機能を担う▼11。
▼1 そのもっとも古典的なものとして、ライト・ミルズ、青井和夫訳「社会病理学者の職業的イデオロギー」I・L・ホロビッツ編、青井和夫・本間康平監訳『権力・政治・民衆』(みすず書房一九七一年)所収。
▼2 この概念への支持の強さは一九八五年に日本社会病理学会が設立されたことにみることができる。その活動は毎年『現代の社会病理』(垣内出版)として出版されており、社会病理学の立場への問い直しがさかんになされている。
▼3 仲村祥一『生きられる文化の社会学』(世界思想社一九八八年)III「文化としての社会問題」参照。
▼4 この問題を正面から社会学に分折した論考として、市野川容孝「死の位相――信仰は医療に優越するか」吉田民人編『社会学の理論でとく現代のしくみ』(新曜社一九九一年)がある。ルポルタージュとして、大泉実成『説得――エホバの証人と輸血拒否事件』(講談社文庫一九九二年)。
▼5 P・L・バーガー、水野節夫・村山研一訳『社会学への招待』(思索社一九七九年)四六ページ。
▼6 前掲訳書四六ページ。
▼7 デュルケーム、田原音和訳『社会分業論』(青木書店一九七一年)八二ページ。ただし命題風に訳しなおた。
▼8 さらに一歩ふみこんで、社会問題を「ある状態についてクレイムを申し立てる個人や集団の活動」すなわち「クレイム申し立て活動」(claims-making activity)として定式化しなおす興味深い試みがある。J・I・キツセ、M・B・スペクター、村上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太訳『社会問題の構築――ラベリング理論をこえて』(マルジュ社一九九〇年)。
▼9 7-1参照。
▼10 11-2参照。
▼11 以上のことがらは、第二二章で具体的に展開しておいたので参照されたい。
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